■ 前田家別邸北口の碑 旧小天(おあま)村湯ノ浦地区には古くから温泉が湧き、小天温泉として数軒の宿があり、前田家別邸もその一つでした。
前田家の当主案山子(1828−1904)は、細川藩に指南として仕えていましたが、明治維新に際し、「農民とともに生きる」決意で案山子と改名、自由民権運動の闘士となり、干拓農地の免訴運動などに奔走しました。
明治11年(187)、彼はここに別邸を建て、中江兆民や岸田俊子(中島湘烟)、中国革命の志士黄興などの多くの同志から来訪。時には大演説会も開かれるなど、さながら政治クラブの観を呈する中、当時、小天温泉は熊本市街から最も近い温泉地であり、旧制五高の先生たちも好んで利用していました。案山子は、明治23年(1890)の第1回衆議院議員も務めました。
明治30年(1897)の暮、当時第五高等学校教授であった夏目金之助(漱石)は、離れに宿泊。「温泉や水滑らかに去年の垢」と数日間ゆっくり過ごしました。
明治39年(1906)、漱石はこの旅をモデルに小説「草枕」を発表しました。作中、前田家別邸は「那古井の宿」、次女卓(つな)が「那美さん」として登場。そばの第2別邸の庭池も「鏡が池」、八久保地区にある本邸は「白壁の家」と書かれています。
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■ 前田家別邸 「草枕」で、主人公が回廊を引廻され階段を上がり下りしたいりする「那古井の宿」の描写はこの別邸の地勢を生かした建物配置から生まれたものです。離れは正面から見ると2階のように見えますが、実際は平屋で、縁側から直接庭に出ることができます。
■ 回廊 渡り廊下
「草枕」で、女が振袖を着て行き来する場面があります。これは回廊仕立ての構造により成り立っている場面で、漱石は離れの中央または南側の間に居て母屋の廊下を通る卓を見たものと推測されます。
■ 浴室 「草枕」で、「画工」が入浴としているとき、湯煙の中に「那美ん」が手拭を下げて湯壷へ下りて来る情景が描かれています。この真相は、後片付けを終えた卓が「女湯がぬるかったったので、もう遅いから誰も居ないと思って男湯にはいって入ったら、夏目さんと山川さんがいたので慌ててとび出した」のだそうです。入浴の半地下構造は、当時ポンプなどなく、泉源より湯槽を低くして流下させるためにとられたものです。
小説「草枕」の舞台「前田家別邸」説明板の記載 |