熊本市指定史跡 「夏目漱石内坪井旧居」 文豪 ・ 漱石をしのぶ記念館

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2015' MAY 03 Message

松山で教鞭をとっていた漱石は、熊本の第五高等学校教授になっていた親友菅虎雄に、「五校で使ってくれ」と手紙を送ります。
明治29年 (1896) 4月13日漱石は、五校の英語の教師として池田停車場 (現JR上熊本駅) に降り立ちます。人力車に乗って新坂から、薬園町の菅虎雄宅へ向かう途中、眼下に広がる市街地を見て、「森の都」 と言ったと伝えられています。 * * * ♪ ♪ ♪ 。


itigonet ・ Strawberry-Club NATSUME SOSEKI 草枕の時
草枕峠の茶屋

■ 草枕峠の茶屋
東に大阿蘇・西に雲仙・南に秀峰金峰の山波静かなる有明の海に浮かぶ絵の如き宇土半島遠く天草の島々も見ゆ展望遥かなり野出越。
古くから景勝の地として知られ、野出百軒の呼名で通った集落の西の端に茶屋在りて旅人が一服した憩いの場にて四方の景色で疲れを癒し渋茶で喉をうるおし駄菓子で空腹を満し元気を回復して目的地に急いだものでした。明治30年の文豪、夏目漱石先生は僚友の山川信次郎氏と共に小天温泉に行かれた折に野出の茶屋に立ち寄りし思い出を後年、不朽の名作「草枕」の素材とされた(「オイ」と声を掛けたが返事はない)で始まる名文句は風光明媚な茶屋跡の展望と共に今もなお脈々として生き続けて居る。

■ 有明海の凪
夏目漱石は本名を金之助といい慶長3年 (1867) 、江戸牛込馬場横町に生まれました。幼少時代。里子、養子と度重なる境遇の変化が漱石の性格形成に大きく影響したといわれています。
明治22年 (1889) 正岡子規や菅虎雄、山川信次郎と知り合い、子規の詩全集「七艸集」に批評に初めて "漱石" の号を用いました。
東京帝国大学英文科を卒業し、東京高等師範学校と愛媛県松山の尋常中学校に勤務の後、明治29年 (1896) 4月13日、第五高等学校の英語教師として熊本に赴任します。


前田家別邸と当主・前田案山子 (まえだかがし)
+ + 夏目漱石 小説「草枕」の舞台 「前田家別邸」 + +

■ 前田家別邸北口の碑
旧小天(おあま)村湯ノ浦地区には古くから温泉が湧き、小天温泉として数軒の宿があり、前田家別邸もその一つでした。 前田家の当主案山子(1828−1904)は、細川藩に指南として仕えていましたが、明治維新に際し、「農民とともに生きる」決意で案山子と改名、自由民権運動の闘士となり、干拓農地の免訴運動などに奔走しました。 明治11年(187)、彼はここに別邸を建て、中江兆民や岸田俊子(中島湘烟)、中国革命の志士黄興などの多くの同志から来訪。時には大演説会も開かれるなど、さながら政治クラブの観を呈する中、当時、小天温泉は熊本市街から最も近い温泉地であり、旧制五高の先生たちも好んで利用していました。案山子は、明治23年(1890)の第1回衆議院議員も務めました。 明治30年(1897)の暮、当時第五高等学校教授であった夏目金之助(漱石)は、離れに宿泊。「温泉や水滑らかに去年の垢」と数日間ゆっくり過ごしました。 明治39年(1906)、漱石はこの旅をモデルに小説「草枕」を発表しました。作中、前田家別邸は「那古井の宿」、次女卓(つな)が「那美さん」として登場。そばの第2別邸の庭池も「鏡が池」、八久保地区にある本邸は「白壁の家」と書かれています。

■ 前田家別邸
「草枕」で、主人公が回廊を引廻され階段を上がり下りしたいりする「那古井の宿」の描写はこの別邸の地勢を生かした建物配置から生まれたものです。離れは正面から見ると2階のように見えますが、実際は平屋で、縁側から直接庭に出ることができます。

■ 回廊 渡り廊下 「草枕」で、女が振袖を着て行き来する場面があります。これは回廊仕立ての構造により成り立っている場面で、漱石は離れの中央または南側の間に居て母屋の廊下を通る卓を見たものと推測されます。

■ 浴室 「草枕」で、「画工」が入浴としているとき、湯煙の中に「那美ん」が手拭を下げて湯壷へ下りて来る情景が描かれています。この真相は、後片付けを終えた卓が「女湯がぬるかったったので、もう遅いから誰も居ないと思って男湯にはいって入ったら、夏目さんと山川さんがいたので慌ててとび出した」のだそうです。入浴の半地下構造は、当時ポンプなどなく、泉源より湯槽を低くして流下させるためにとられたものです。
小説「草枕」の舞台「前田家別邸」説明板の記載


itigonet ・ Strawberry-Club NATSUME SOSEKI しょう脳製造
峠の茶屋 資料館

■ 草枕峠の茶屋 復元「峠の茶屋」 駐車場の大釜(しょう脳製造用)
峠の茶屋の駐車場には大釜が展示されています。明治頃より、この一帯では金峰山山系に豊富にあった樟木を原料とした「しょう脳」造りが行われていたとのことです。
釜は、水蒸気蒸留法によりしょう脳を分離する際に使用されていた釜のなかでも最も大きなもので直径約2メートルの大釜です。漱石のころのものと説明されています。

■ 峠の茶屋公園
熊本市 明治30年(1897)、文豪夏目漱石は、友人の山川信次郎とともに熊本から現在の天水町へ旅をしました。その時に通ったのが、鳥越峠と野出峠。当時この2つの峠には茶屋があり、有名な「草枕」の一節「おい、と声をかけたが返事がない」はこのどちらかの茶屋が舞台といわれています。現在、野出峠は有明海や島原半島を望む展望公園として整備されていますが、茶屋はありません。しかし、この鳥越峠には茶屋が再建され、峠の茶屋公園として整備されています。再建された茶屋の内部は、漱石に関わる資料を展示した資料館として公開されています。


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