■国指定 小泉八雲旧宅 (ヘルン旧居) 小泉八雲 (ラフカディオ・ハーン) は怪談「耳なし芳一」や「雪女」の作者として有名です。文学者としての八雲の功績は大変広範囲に渡っており、翻訳 (主にフランス文学の英訳) 、紀行、随筆、文芸批評、民俗学などの分野でも多くの作品を残しています。 その中でも最大の功績は、当時の西洋人としては珍しいほどの日本に対する偏見がなく、むしろ過ぎるほど好意的な眼で当時の日本を広く世界に紹介したことです。 「知られぬ日本の面影」、「心」、「東の国から」と題された随筆集は、その代表作です・それらの作品は現在も、当時の日本の風俗・習慣・文化などの単なる記録にとどまらず、美しい文体で描かれた素晴らしい文学作品として読むことができます。 ■小泉八雲と根岸家旧宅 八雲は明治37年 (1904) 、東京で亡くなるまでの14年間を日本で過ごし、その間、松江・熊本・神戸・東京の四つの都市に住みました。松江では1年3月弱を暮らし、その内の約5カ月をこの家で過ごしました。八雲が住んでいた当時のままで保存されているのは、現在の松江の小泉八雲旧居だけです。 根岸家は士族で、この家は旧松江藩士の武家屋敷です。家主の根岸干夫は維新後、島根各部の郡長を歴任。八雲が松江にいた当時は簸川郡 (現在の出雲市) の郡長をしていたためこの家は空いており、庭のある侍屋敷に住みたいという八雲に貸すこととなりました。 八雲が大層気に入った旧居の庭は、根岸干夫の先代、根岸小石の手による明治元年 (1868) に造られたものです。規模こそ小さいものの、この庭に枯山水の観賞式庭園としては、高い評価を受けています。 八雲と根岸家との関りは、干夫の長男磐井が松江中学、旧制五校、東京帝大で八雲に教わった師弟の関係もありました。東大卒業後、磐井は日本銀行に勤務しましたが、東大時代の友人上田敏、小山内薫、柳田国男らの勧めもあり、八雲が愛した旧居の保存のため、大正2年 (1913) に松江に帰り、一部改築されていた家を元通りに復元し、記念館設立などにも力を尽くしました。 磐井の没後も、旧居は代々根岸家の人々の手によって、八雲が住んでいたままの姿を保存され現在に至っています。 ■旧居観覧の手引き 小泉八雲旧居は、八雲の居間、書斎、セツ婦人の部屋などをぐるりと取り囲む庭が観覧の対象です。八雲はこの屋敷全体を借りて住んでいましたが、公開は一部です。 ここには住宅の構造を見るだけでなく、八雲自身になって作品「知られぬ日本の面影」の舞台となった庭を見ていただきたいと思います。日本全国各地に著名人、文化人の旧居はたくさん残っていますが、従って公開も庭を見ていただくのにふさわしい方法をとっているのです。ただ単に住んだだけということでしたら公開の方法も、ほかの多くの旧居のように、家の周囲をぐるっと歩いて、外からながめるという方法になっていたと思います。 西洋人である小泉八雲が日本の庭をどのように見たのかとうことが重要なのです。と配布されているパンフレットに書かれています。
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