■的石御茶屋跡 的石湧水 的石御茶屋跡は、豊後街道沿いに設けられた御茶屋跡で、街道の中でも難所とされる二重の峠を越え、阿蘇に入るときの峠下にある藩主専用の休憩所として用いられてきた場所です。ここには旅の疲れを癒すかのように周辺の山々から湧く豊富な湧水があり、御茶屋当時の面影が色濃く残しています。この湧水は、現在でも生活用水や農業用水として利用されており、阿蘇の歴史的背景と農業や地域の生活を培った重要な場所として位置づけられています。と説明板に書かれています。(一部抜粋) ■参勤交代と的石御茶屋跡 豊後街道は、江戸時代の参勤交代に江戸へ行く最短のコースとして整備さりた重要な街道でありました。熊本城を出発して大津で第一夜を明かした藩主の一行は、高尾野、新小屋などを経て二重の峠で休息したのち、石畳の坂道を下り的石御茶屋で昼食をとられた、次の宿泊地である内牧を目指されました。 的石御茶屋は、元禄10年2月に小糸次右工門忠経の屋敷を御茶屋と定め、改築の上御茶屋番に任じられ、その後代々御茶屋番を勤めましたが、明治5年の廃藩置県により御茶屋は廃止され、そのまま小糸家の住居となり、現代に及んでいます。 細川家の参勤交代のための大津、内牧、坂梨などの御茶屋跡は、的石御茶屋跡だけが、昔日の面影を残しています。と説明板に書かれています。 ■隼鷹天満宮 肥後藩主細川利公は(1661〜1712)が参勤交代のため船で東上の折、海上で天候が悪化し、激しい波に船が呑まれようとした時、一羽の白鷹がどこからともなく船柱に飛んできました。すると怒涛はたちまち靜穏となり、つつがなく渡航を終わって無事に上陸することができました。 藩主はその夜旅宿で、霊鷹は的石天満宮の権化との神諭を夢見、その霊験あらたかなるに感じ、京都で社殿の建立を命じられました。 享和元年(1716)12月に国主が奉納された絵馬や、天保13年(1842)12月に細川斎護が奉納された鶴の額が神殿に収蔵されています。と説明板に書かれています。 ■二重峠の石畳 (ふたえのとうげのいしだたみ) 阿蘇外輪山を越え、阿蘇谷に入る峠に豊後街道の石畳の道がおよそ2kmにわたって続いている。 起点は熊本城下の札の辻からはおそよ8里木(32キロ)ほどである。この地には九十九折の急坂があるといわれ、豊後街道を行く旅人にとて難所であった。道後街道は阿蘇地域では「参勤交代道」とも呼ばれ、その名の通り大名行列が参勤交代の折に通っていた。 ここは明治10年の西南戦争でも重要な場所であり、官軍と薩軍による激戦が地元住民を巻き込んで繰り広げられた明治15年(1882)に新道(現在の57号線の前進にあたる)が開発されるまで、この道はほとんど使われなくなっていたが、平成に入り、修復工事が行われ、観光客が訪れるようになった。一部には修復前の石畳が残されており、当時を知る貴重な資料となっている。と説明板に書かれています。
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