■日清講和記念館 日清講和記念館は、日清講和会議で使用された調度品やその他の貴重な資料を広く一般に公開するため、昭和10年(1935)から下関市が建設に着手し、同12年(1937)6月に開館しました。 明治27年(1894)に勃発した日清戦争の終結を目的とした日清講和会議は、同28(1895)1895)3月20日から4月17日まで、下関を舞台として開催されました。会議場には料亭兼旅館であった春帆楼が選ばれ、清国全権李鴻章と日本国全権伊藤博文及び陸奥宗光などの両国代表が会議に出席しました。 館内にはこの会議室を再現し、実際に会議で使用された大小16脚の椅子をはじめ、古風な大ランプ・フランス製ストーブ・インクポット・蒔絵硯箱などを展示しています。なかでも蒔絵が施された豪華な椅子は、会議に使用するため浜離宮から下賜された貴重な資料です。これらの調度品から往時の白熱した会議の様子を偲ぶことができます。また、日清講和会議に関わった人物の遺澄や当時の春帆楼の写真等も展示しています。 なお、当館は平成23年(2011)1月26日に国の登録有形文化財になりました。入母屋造、本瓦葺などに加え、組物などの細部に伝統的な意匠が用いられ、威風ふる外観を形成していることから、「造形の規模となっているもの」として文化財登録されています。と館内の説明板に書かれています。 ■日清講和会議 朝鮮半島の権益をめぐり対立していた日本と清国は、明治27年(1894)1894)甲牛農民戦争(東学党の乱)を契機として、日清戦争を引き起こしました。戦況は日本が優勢となり、翌年から清国は日本へ講和の打診を始め、講和会議の地に下関が選ばれました。当時の下関は海陸交通の要衝の地であり、戦略上の拠点の一つでした。 同28年(1805)1805)3月19日、清国使節団の乗った汽船が下関に到着し、翌日から春帆楼において日清講和会議が開催しれました。会議には日清両国の全権等が出席し、交渉は李鴻章の遭難もあって29日間にも及びました。 調印された日清講和条約は下関条約とも称され、朝鮮国の独立の確認、清国から日本への領土割譲、権益の譲与、賠償金の支払い等が約されました。 会期中の3月24日には、宿舎引接寺へ帰途、李鴻章が凶漢に襲撃される事件が発生し、会議は一時休止となりました。李鴻章の快復を待って、4月10日から会議が再開され、4月17日に条約の調印を終えました。会議再開後、李鴻章は引接寺から会議場へ往復を山沿いの小道に変更しました。この道は現在、「李鴻章道」と称され、市民に親しまれています。と館内の説明板に書かれています。
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