■伊藤博文公生家 天保12年(1841)9月2日、この地で生まれた伊藤公は、6歳までをこの家で過ごした。当時は約207坪(684平米)の敷地の中に、母屋や納屋、土蔵があったが、敷地のほとんどが畑として使われていたため、母屋は30坪(100平米)ほどの粗末なものだったと伝えられている。 この生家は、公一家が萩に移り住んだ翌年の嘉永3年(1850)に暴風雨により倒壊したが、大正8年(1919)「伊藤公爵遺跡保存会」によって復元された。 しかし、この生家も老朽化したため、伊藤公生誕150年にあたる平成3年(1991)本町は「ふるさと創生事業」のひとつとして、もともと公の生家のあった場所に建物の移転と復元を行った。と、復元生家脇の説明板に書かれています。 |
■伊藤公の幼少期 伊藤博文は、天保12年(1841)9月、熊毛郡束荷村字野尻の農家、林十蔵と琴子の一人息子として生まれました。幼名を利助といい、満6歳までここで過ごしました。満13歳の時、萩の伊藤家の養子となったことから伊藤姓に変わりました。 ■農業、木綿織 子供の頃の利助は、近所でも評判の腕白坊主で、戦ごっこや魚釣り、木のぼり、相撲など、みんなの先頭にたって暗くなるまで遊びまわっていました。父の十蔵は、庄屋に次ぐ地位にありましたが、生活は苦しく、母琴子は、農作業のあい間に糸を紡ぎ木綿を織り、生計をたてていました。
伊藤博文公生家の周囲には伊藤公の産湯の水の井、千円札の顔出し写真の看板や伊藤公絶筆文の碑など、伊藤公の生涯を学ぶ資料が資料館内や敷地内に点在しています。 |