■伊藤・井上両公上陸跡地 元治元年 (1864) 英国留学中の伊藤・井上両公は英米仏蘭4か国連合艦隊が馬関を攻撃するという情報を聞き、英国留学を中断して急きょ帰国。 伊藤俊輔 23歳、伊藤聞多 29歳 英国軍艦で姫島まで運んでらい、6月24日早朝、姫島から小船で発ち、昼前、此の飛船問屋、入木館磯七宅に密かに上陸。 富海の勤王の志士、入江石泉から、藩や京都の情勢等の情報を入手し、食事を済ませ、刀を借り衣類を整えて山口藩庁へ向かった。 藩主敬親公に、外国艦隊との無謀な戦いをやめる様説くも馬関戦争となるが、戦後高杉晋作らと講和条約に奔走した。 後に明治維新の功労者となる伊藤・井上両公への大事な支援がこの地において展開された。と説明板に書かれています。 ■伊藤・井上両公上陸遺跡跡 1863年、「長州ファイブ」の一員としてイギリスにいた伊藤博文、井上馨は、英米仏蘭の4か国連合艦隊が下関を攻撃するとの情報に接し、英国留学を中断して帰国の途につきました。両名は、1864年6月24日に、ここ富海 (とのみ) に上陸し、勝ち目のない戦いを止めようとしましたが努力は実らず、関門海峡の戦いで長州藩は大敗を喫しました。両公の上陸を記念して、1929年旧入本屋屋敷跡に碑が建立されました。と記された説明板があります。
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