大村益次郎は、維新後は兵部大輔となり、大いに軍制を改革し、日本の国は日本国民全部で守るべきだとして国軍の建設に尽力した。

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2017' MAY 28 Message

大村神社の祭神は大村益次郎である。益次郎は文政八年(1825)五月三日に鋳銭司で生まれました。成長して三田尻の梅田幽斉に蘭学、九州の広瀬淡窓に漢学、大阪の緒方洪庵に洋学・医学を学び、寛永六年( 1853)、宇和島藩にまねかれて、宇和島に数年いたのち、江戸に出て塾を開き、ついで幕府の講武所の教授となった。その後、洋学、兵学者として長州藩に仕えた。 * ♪


+ + 大村益次郎 大村神社 + +

■大村神社
大村神社の祭神は大村益次郎である。益次郎は文政八年(1825)五月三日に鋳銭司で生まれました。成長して三田尻の梅田幽斉に蘭学、九州の広瀬淡窓に漢学、大阪の緒方洪庵に洋学・医学を学び、寛永六年( 1853)、宇和島藩にまねかれて、宇和島に数年いたのち、江戸に出て塾を開き、ついで幕府の講武所の教授となった。その後、洋学、兵学者として長州藩に仕えた。
幕府の長州征伐に際しては、四境にせまる幕府軍に対して、身についた洋式兵法をもつてこれを破り、倒幕の機をはやめた。戊辰の役にも参謀として功があり、明治新政府の樹立に尽くした。維新後は兵部大輔となり、大いに軍制を改革し、日本の国は日本国民全部で守るべきだとして国軍の建設に尽力した。
しかし、それがために、旧思想の武士たちの反対にあい、京都に出張中に襲撃を受け、その傷のため明治2年11月5日大阪の病院で没した。遺骸は瀬戸内海を船で郷里に運び、この北方にある丸山に埋葬した。
当神社は、墓地のそばにあったが、昭和21年この地に再建された。
隣の鋳銭司郷土館に、益次郎関係の資料・遺品が展示されている。と書かれた説明板が境内にあります。



+ + 大村益次郎 生誕宅跡 + +

■山口市指定文化財 大村益次郎生誕宅跡
この地は、大村益次郎の祖先が代々居住していたところで、益次郎は、この地で文政8年(1825)5月3日に出生した。しかし、益次郎の出生後3年ばかりして、一家は父の実家である秋穂の天田に移り、生家は解き払われた。
益次郎は成長して、三田尻の梅田幽斉に蘭学、九州日田の広瀬淡窓に漢学、さらに大阪の緒方洪庵について洋学・医学を学んだ。
嘉永6年(1853)宇和島藩にまねかれて、宇和島に数年とどまり、後に江戸に出て塾を開き、ついで幕府の講武所の教授となった。
その後長州藩に召されて江戸藩邸に入り、後に帰国して明倫館教授となった。
この頃、いわゆる幕府による長州征伐がおこり、益次郎は参謀としてよくこれに対処し、幕府軍をやぶった。
その後、戊辰の戦いにも参謀として功があり、明治新政府の樹立に尽くした。
維新後は兵部大輔として、大いに軍政を改革し、日本の国は日本国民全部で守るべきだとして、大いに国軍の建設に尽力したが、明治2年9月4日京都において、反対派のために襲撃をうけ、11月5日大阪で没した。
東京の靖国神社の社頭にある益次郎の銅像は、益次郎のありし日の英姿である。と生誕地にある説明板に書かれています。

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