■ 山口市指定文化財 大村益次郎生誕宅跡 説明板 この地は、大村益次郎の祖先が代々居住していたところで、益次郎は、この地で文政8年(1825)5月3日に出生した。しかし、益次郎の出生後3年ばかりして、一家は父の実家である秋穂の天田に移り、生家は解き払われた。 益次郎は成長して、三田尻の梅田幽斉に蘭学、九州日田の広瀬淡窓に漢学、さらに大阪の緒方洪庵について洋学・医学を学んだ。 嘉永6年(1853)宇和島藩にまねかれて、宇和島に数年とどまり、後に江戸に出て塾を開き、ついで幕府の講武所の教授となった。 その後長州藩に召されて江戸藩邸に入り、後に帰国して明倫館教授となった。 この頃、いわゆる幕府による長州征伐がおこり、益次郎は参謀としてよくこれに対処し、幕府軍をやぶった。 その後、戊辰の戦いにも参謀として功があり、明治新政府の樹立に尽くした。 維新後は兵部大輔として、大いに軍政を改革し、日本の国は日本国民全部で守るべきだとして、大いに国軍の建設に尽力したが、明治2年9月4日京都において、反対派のために襲撃をうけ、11月5日大阪で没した。 東京の靖国神社の社頭にある益次郎の銅像は、益次郎のありし日の英姿である。と生誕地にある説明板に書かれています。
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