■九州のへそ | 蘇陽町 分水嶺 蘇陽町の西側に降る雨水は緑川となって有明海から東シナ海に注ぎ、東側に降る雨水は五が瀬川となって太平洋に注いでいる。つまりこの地点が九州の分水嶺となり、九州のほぼ中心に位置し、人間の体にたえるとちょど「へそ」の位置となるわけである。私達町民は、ふるさとを愛し、温もりのある自然との共存を考えた豊かな町づくりに心掛けます。 東経130度45分、北緯31度20分 と碑に刻まれています。 ■馬見原 明神の本(神域の湧水) 九州のほぼ中央に位置する馬見原は、肥後の熊本と日向の延岡を結ぶ日向往還の国境の町であり、また、阿蘇と九州山地の椎葉を結ぶ道路の交差するところで大関所が置かれていました。 交通の要衝であることから、物資の集積地あるいは流通の拠点として、肥後藩内はもとより豊後(大分県)の竹田、日向(宮崎県)の三田井(高千穂)や椎葉など他藩の商人達も集まる交易の盛んな宿場町となり、駄賃付という物資の運搬に携わる人々の往来も多く、江戸中期から明治・大正・昭和の初めにかけて繁栄しました。 明治22年(1889)には阿蘇郡内で最初に町制がしかれました。また、当時の町には商家が軒を連ね、造り酒屋16軒・芸奴置屋5軒・茶屋7軒などもあって大いに賑わっていました。 大正年間の馬見原を描いた屏風絵があります。その絵には大正15年(1926)に建てられた750人収容の回り舞台が備えられた近代的な劇場「花園座」や、街道筋に立ち並ぶ大きな商家や町屋、その中には当時馬見原でよく見られた外観三層(内部四階)の上に望楼がついた特異な建物も描かれています。 明治35年(1902)に当時17歳の歌人、若山牧水が、延岡から三田井-馬見原-浜町-御船を通って熊本までの旅をしています。 馬見原では若松屋な泊り、道中日記に 馬見原ハ シャレタ町ナリ と書いたほど強く印象に残ったようです。 俳人 種田山頭火は大正15年(1926)の初夏に熊本から延岡まで托鉢をつづけ、途中の馬見原では木賃宿の益城屋に泊まっています。この度の道中がら 分けいっても 分けいっても 青い山 と有名な句を詠んだと伝えられています。 道路が整備され、物資の集積地としての役割が薄れ、さらに何度かの大火によって、当時の姿をとどめる建物は少なくなりましたが、その面影を残す建物や石垣・古文書などの文化遺産が残っています。と駐車場の説明板に書かれています。
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