別子銅山遺構 東洋のマチュピチュ
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東平駐車場から見た東洋のマチュピチュ |
別子銅山 (べっしどうざん)は 愛媛県新居浜市の山麓部にあった銅山です 1690年 (元禄3年) に発見され 住友家(閉山時は住友金属鉱山)が翌年から1973年 (昭和48年)に閉山するまで 約70万トンの銅を産出しており 日本の貿易や近代化に寄与するとともに 住友グループが日本を代表する巨大財閥となる礎となった銅山です
写真は 現在の東平(とうなる)地区の銅山遺構です 石垣やレンガで造られた建物のイメージと 高所に位置するところから 南米ペルーのインカ遺跡にちなみ 東洋のマチュピチュと呼ばれています
遺構は 松山自動車道新居浜ICから国道11号線・県道別子ラインと進み 道の駅マイントピア別子の先の遺跡をの方向を示す看板を進みます この道はとても道幅が狭い約5キロの市道 また カープと傾斜の連続します くれぐれも運転には注意が必要です |
東平は構内電車のプラットホームがあった場所です 東平歴史資料館脇の隧道脇の説明板は次のように構内電車を説明しています
東平は 標高750メートル前後に位置し 大正5年(1916年)から昭和5年(1930年)まで別子銅山の採鉱本部が置かれていた地域で 最盛期には3800人近い人々が暮らした鉱山の町でした■マチュピチュ2 明治36年(1902年
に東平・東傾斜坑底を結ぶ「第三通洞」 明治44年(1911年)に東延斜坑底 日浦を結ぶ「日浦通洞」が貫通し この線路を走る電車により新居浜地域と別子山地域が結ばれるなど 東平は 別子銅山の交通輸送の重要な拠点になります (■東平説明板)
昭和43年(1968年)の東平坑終掘に伴い 東平は 一時廃墟と化し無人の地となりましたが 昭和63年(1988年)の「銅山の里自然公園」や平成6年(1944年)の「東平記念館」の建設により 今 再び注目されるようになってきました |
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インクライン跡 |
東平貯鉱庫跡 |
インクラインは 生活用品や資材を引き揚げたり降ろしたりするため 傾斜面にレールを敷いたトロッコを走らせるケーブルカーの一種 が造られていました 跡地は 写真のように 220段の長大な階段に生まれ変わっています (■インクライン跡説明板) (■下から見たインクライン跡)
階段の上部が東平の坑内電車のプラットホーム跡の駐車場 階段の下部が索道(鉱石を運ぶロープウェイ)基地跡です
階段の両側は 往時を偲ぶように石とレンガの遺構 坑内電車や索道が運ばれた物資などが プラットホームの上部にあった東平中学校 本部施設 社宅などに運ばれていったことでしょう ■索道基地跡説明板
階段の両側には「あじさい」が植えられています 梅雨の季節には 往時の姿を謳歌するように素敵な花が見られることでしょう |
明治38年竣工 選鉱場 索道基地 重厚な煉瓦造りの構造物 産出された鉱石は東平から索道によって瀬戸内海に浮かぶ四阪島の精錬所まで運ばれたといいます
土井晩翠は東平の接待館にて 玲瓏(れいろう)の心の眼あけ千万の宝秘めたる天地をみよ と詠んでいます
東平貯鉱庫跡は往時の木造の構造物はなく 石壁と煉瓦の塔が残る遺構です 風雨を重ねる天空の遺構 冬の枯れ野に浮かび上がる遺構も 春 夏には 無数の草が多い尽くされることでしょう ■煉瓦遺構
東平貯鉱庫跡は 永遠に別子銅山の繁栄の歴史を語り継いでゆくことでしょう |
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東平(とうなる)歴史資料館 |
かご電車 鉱山運搬機器 |
大正15年(1916) 旧別子の鉱山本部が移転し 東平は 鉱山の拠点として繁栄します 標高750メートルの山岳奥地 そこには 別子銅山遺構 東洋のマチュピチュの遺構を含め 貯鉱庫 選鉱庫 変電所 社宅 学校 劇場 接待館などの施設があったといいます
東平 (とうなる) 歴史資料館の展示物 資料館脇の往時の東平の配置図 そして 資料館奥の洞跡に展示されている 鉱山運搬器機展示場 その資料は 東平 別子銅山の歴史を伝えています ■博物館内部
東平は 最盛期 3800人が暮らした街といいます 昭和43年の休抗によって 鉱山の拠点としての役割を終え 廃墟の地となっていましたが 平成6年 マイントピア別子東平ゾーンの開園によって 東洋のマチュピチュは 産業遺産として 受け継がれることになりました ■パネル写真1 ■パネル写真2 ■私立住友東平尋常高等小学校説明パネル |
東平歴史博物館の入口奥の隧道内に かご電車の車両が保管展示されています 昭和13年(1938年)から昭和48年(1973年)の休山まで 東平坑口と日浦坑口の間 約4000メートルの坑口を往き来る人々が乗った電車といいます
銅山で働く人以外でも無料で乗車でき 銅山峰の嶺南側と嶺北側を結ぶ重要な交通手段であって 電車は その形から かご電車の愛称で親しまれていたと いいます 東平歴史博物館脇の短い隧道に展示された かご電車や蓄電車見ると 旧線路脇に整備された遊歩道に出ます 時間があれば 旧線路の遺構 点在する鉱山の遺構跡を散策され 鉱山の歴史を巡ってください
くれぐれも山岳地帯です 事前に コース 危険度を調べられ 慎重に散策して ください (■かご電車説明板) |
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打除鉄橋 |
第四通洞 四通橋 |
打除鉄橋は端出場駅から打除駅の間にある鉄橋です 打除橋脇に設置された説明板には次のように説明されています
この鉄橋は 明治26年(1893年)に架設した単純曲弦トラス橋で 格点(連絡点)がピン(鉄の丸棒)構造になっており この種の橋は今では国内にほとんど現存せず 左右の曲弦がズレていること等から 学術研究上貴重なものです なお この橋は住友の小川東吾氏が設計した別子銅山専用鉄橋として ドイツの製橋会社が製作したものです と説明されています
別子銅山鉄道は 上部鉄道である角石原−石ケ山丈 下部鉄道である端出場−新居浜港間の本線 星越−惣開の惣開支線 多喜ノ宮−新居浜駅間の国鉄連絡線があったといいます 今回 乗車した端出場−打除間は鉱山の専用鉄道区間であったため 旅客営業が行なわれていなかった区間でしたが 鉄道廃止後に 観光鉄道として復活した区間です ■端出場駅 ■打除駅
現在は別子1号という蒸気機関車のレプリカの第三軌条式電車が運行され 観光坑道として見学できる端出場坑道に向かう乗客を運んでいます ■端出場観光坑道入口 |
東平から下山して道の駅マイントピア別子に向かうと 写真の第四通洞 四通橋を見ることができます 説明板は第四通洞(だいよんつうどう) 四通橋(よんつうきょう)を次のように説明しています ■第四通洞2
14番坑道準の海抜156mにある端出場坑口と大立坑を結ぶ輸送路で 明治43年(1910年)に開墾に着工し 大正4年(1915年)に貫通した 通洞の延長は4596m 工事には インガーソル式圧縮機 フランクリン式圧縮機を動力とする削岩機が使用された 採鉱場も更に下部へと移行したことから鉱石の搬出は第三通洞のある東平から第四通洞のある端出場に移転した
その後 筏津下部に向けて 延長5100mの探鉱通洞が昭和10年(1935年)に開墾され 昭和17年(1942年)に貫通し 全長約10000mの大通洞になり筏津坑の操業にも大きく貢献した 昭和48年(1972年)の別子銅山休山までの間 大動脈として活用された最後の水平坑道 端出場と大立坑道プラット間には トロリー電車を走らせていた (■第四通洞説明板)
四通橋は 大正8年(1919年)に大動脈の第四通洞に接続したトラス橋として足谷川に架る橋として開通した 大正12年(1923年)から全坑水を第四通洞から排水することになり 四通橋の東側に排水管が通ってる と説明されています |
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道路脇の氷柱 (番外編) |
初夏に訪ねた 別子銅山遺構 東洋のマチュピチュ |
訪ねたのは3月下旬 道の駅マイントピア別子から東平に向かい 東平に向かう市道を入らずに そのまま進むと 峠のトンネルに行きます 写真は トンネルの手前の道路の壁面にあった 氷柱です ■氷柱拡大
新居浜 そして瀬戸内海を望む高台の道路 春の予感のする季節でしたが まだまだ 峠道は冬の風情です いろは坂のような峠道 路肩には雪が残り 壁面は凍てつく 氷柱 山岳地帯の厳しさを教えてくれます
標高750m前後の東平 それよりも標高のあった上部鉄道の遺構 温暖な四国も 山岳部は厳寒です 別子銅山に暮らした先人の労苦を氷柱からも知ることができます
別子銅山遺構 東洋のマチュピチュとともに訪ねていただきたい 四国の歴史です |
あじさいの花が満開の季節に別子翠波はな街道を訪ねました 別子翠波はな街道は 四国中央市の伊予三島から国道319号線 県道6号 県道47号を経由して新居浜市に至るルートです このルート上には別子銅山遺構として4つの箇所があります 1つは東平の東洋のマチュピチュ遺構群 そして別子ダム脇の登山道を登る遺構群 マイントピア別子の第四通洞と発電所 そして新居浜市の別子銅山記念館です
また訪ねたときは 東平にある上部鉄道の遺構群と別子ダムから登山道を利用して別子山の遺構群を散歩したいものです
夏の別子銅山遺構は 上の東洋のマチュピチュ遺構群の写真または ■夏の東平 東洋のマチュピチュ遺構群 でご覧ください
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