■鏡ケ池の恵比寿様 平安時代、醍醐天皇の孫姫小松女院がも清少納言の兄清原正高公を慕って、当地を訪れ、この池に大事な鏡を沈め、正高公に再開できるようにお祈りしたことは今に語り継がれている。 室町時代になると両神社門前には市が立つようになり、細川公肥後入国後は、社会の安定とともに町ができ商家も並んだ。商家では早くから恵比寿様を「福の神」として信仰し、江戸時代中頃、高札場(前肥後銀行前)横に大北恵比寿様がお祭りされた。 商家の中に湊屋橋本順左衛門がいた。順左衛門は、毎朝けやき水源で体を清め、水神様に自然の恵みを感謝した。その後、両神社に天下の太平と商売繁盛をお祈りして朝食をとった。順左衛門は才覚・算用を旨として商売に励み、夕刻になると、その日の商売をこの恵比寿様に報告して一日を終わった。ある朝方、けゆき水源に船の入る夢から吉兆を感じ、その頃、両神社ではじめられていた富くじを買い一番くじを当てた。 順左衛門は社会への恩返しとしてけやき水源や横町坂を石畳にし、宮原への水害を防ぐため石の堤防を作った。また、再度水源の夢に津江に鯛生や鹿児島の菱形に金鉱を探しあてた。 明治24年12月28日、餅つきの残火から宮原の大半を焼いた大火災で湊屋も焼けた。その時、大人でも持てないと言われた湊屋の大金塊は消えていた。蔵跡を掘って見なさいとの遺言は今も生き続けている。
■鏡ケ池伝説 小松女院 都が奈良から京都へ移った平安時代の中期(紫式部の「源氏物語」や清少納言の「枕草子」の書かれた時代) 醍醐天皇の孫娘、小松女院は、美男で横笛の妙手といわれる清少納言の兄、清原正高に密かに心を寄せていました。二人は、いつしか心通わせるようになりますが、正高は豊後の国(大分県)、小松女院は因幡の国(鳥取県)と離されます。 月日は過ぎ、正高を恋い慕う小松女院は、といとう豊後の国へ正高を探しに出かける決意を固めるのでした。 侍女十一人を従えて因幡を発し、はるばる小国の地においりたった一行は、祠の下から清い泉が湧いている、この池の近くの民家に宿をとりました。小松女院は、正高に恋い慕う己の姿を映し出す鏡を身代わりとして神仏に奉げ、鏡をこの池に投げ入れました。切なる女院の心を察した侍女十一人も各々鏡を投じて再会のできるよう祈りました。そののち村人たちは、この池を「鏡ケ池」と呼ぶようななりました。 一行が次の下城の民家に泊ったとき、随行の乳母が力尽きて亡くなりました。村人たちは、墓じるしに銀杏の木を植えました。現在、天然記念物に指定されている下城の大イチョウです。 その後の足取りは、山を越え玖珠の地で正高に妻のあることを知り、とげられぬ悲恋の情にたえず、名もいう優しき三日月滝(織月滝同)にはてました。 肌身離さぬ鏡は女の宝、それを惜しげもなく池に投じて恋人にめぐり合うことを祈った女院と姫を思う侍女の美しき心、幾久しく伝えたい。
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