西南の役の激戦のなかで、死傷者が四千余人にものぼった田原坂の戦いの様な激しい戦いは他になかったといいます。

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2015' APR 10 Message

田原坂公園は、現在はツツジや桜の名所として知られています。
西南の役では17日間にわたる戦闘が繰り広げられた激戦地でもありました。園内には、激戦の跡が生々しい弾痕の残る家(復元)や慰霊塔・土蔵造りの資料館が建ち、往時の戦いの激しさがうかがえます。資料館には当時の貴重な官薩両軍の武器・弾薬・備品などの遺品や戦争資料が展示されています。 * ♪


+ + 西南の役では17日間にわたる戦闘が繰り広げられた激戦地 + +

■田原坂崇烈碑
西南戦争の激戦地の田原坂には、崇烈碑がありますが、碑の脇の説明板はこの碑の建立の経緯を次のように説明しています。
建立の経緯は、明治13年9月13日、五野保萬日記によると鹿本郡植木町豊岡(田原坂)の山中において、過る10年ら、鹿児島の西郷隆盛が事変を起こしたことや、その経緯と等について大石記することとなった。
ところでこの石は、 (中略) 八代港に着船した。 この石は曰く、石幅1.20m、長さ4.50m、重量約3.600キログラム。これを運搬することは大変な作業であった。車に載せて牛15頭、作業員30名が各々作業ほして60日を要した。と碑の建立の趣旨を説明しています。
■官軍の立場からの記述
碑文には当時の社会情勢や戦いの推移、田原坂の激戦の様子などがまとめられています、とくに、西南の役の激戦のなかで、死傷者が四千余人にものぼった田原坂の戦いの様な激しい戦いは他になかったこと。またしても薩軍が南関を破り北上してたなら、各地の政府に不満の者が隙を見て立ち上がり、禍いは測り知れぬものとなっただろう。そうならなかったのは田原坂の戦いに勝ったからであること。以上、田原坂激戦と勝利の意義が官軍の立場から述べられています。
鹿児島県は西日本の中でも土地が広く、人々は勇敢でした。そして、西郷隆盛の名声は世間に知られていました。国内の士族には西郷の進退をうかがい、西郷の影響を及ぼす者もいました。明治10年2月、西郷隆盛は反乱を起こし、熊本城を囲みました。
天皇は大変に怒りになられ、軍隊にこれを討たせられました。熾仁親王が征討総督で、陸軍中将山形有朋、海軍中将川村純義が参軍となりました、薩軍は兵を分け、植木、山鹿の両道を抑え、進軍し高瀬に入りました。27日、官軍は高瀬を占領。3月4日には木葉も占領しました。薩軍は退却し、田原坂の要地に陣を築きました。その上、熊本城の囲みも固く、援軍の路も絶ちました。


■訳文 この田原坂の地は両側が壁のように立ち、小さな路がけわしい所です。
薩軍は皆精鋭の兵で、しかも堅固な陣地を築き、そこから狼や虎が吠えて襲う様に出撃しました。攻めるのに難しく、守るのに易しい地形の要地に官軍も苦戦を強いられました。 こうして激戦昼夜を問わず17日に及び、ついに薩軍を撃退されました。

■被弾の家 死傷者四千余人、西南の役中に数百の激戦がありましたが、しかしいまだに田原坂のような激戦は他にありませんでした。もしもこの坂を抜くことが出来ないで、薩軍が南関を破り北方に進出していたならば、直ちに政府に不満を持った者たちが必ず隙をみて立ち上がり、禍いは測り知れなかったでしょう。しかしそんな状態に至らず、すもやかに撃破することがで出来たのは、実に田原坂の勝利によります。
ああ、誠に死者の功績が大きく、そのままにしておけない痛ましいことである。 そこで碑を田原坂り坂上に建て、このこと記し、忠烈な戦いを顕彰するものである。 明治13年10月 (訳文) と碑に、書かれています。

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