■高杉晋作 萩城下の菊屋横丁に武士の子として生まれました。19歳の時に、友人の久坂玄瑞のすすめで松下村塾に入塾し、久坂と並んで村塾の双璧と称されました。長野の佐久間象山を訪ねて学びました。身分に関係なく組織された奇兵隊を結成し、四境戦争などで連戦連勝して長州藩の勝利におおいて貢献しました。幕末にたいへん活躍しましたが、明治維新を見る直前に下関で病死しました。 ■吉田松陰 江戸時代の終り頃、萩の松下村塾で幕末の志士や明治維新に活躍する多くの人材を育てました。萩藩士の二男として、萩の松本村に生まれ、幼くして吉田家の養子となり、山鹿流兵法師範の職を継ぎました。また、松陰は生涯にわたって日本中を旅しています。世界に眼を向けた松陰はアメリカ軍艦で海外渡航しようと計画しましたが失敗しました。その後、安政の大獄によって処刑されました。 ■久坂玄瑞 萩城下の平安古で生まれました。松陰と出合ったのは17歳の頃で、松陰から防長年少第一流の才気いる男と評されました。松陰の妹の文と結婚して松陰の実家・杉家に同居し、松下村塾での松陰の教育事業を助けています。吉田松陰の亡くなった後の村塾ではつねに中心的な人物でした。京都での蛤御門 (禁門) の変の戦いで負傷し、25歳の若さで亡くなりました。 |
■山田顕義 武士の長男として生まれ、14歳の時に松下村塾に入塾しました。村塾の一燈銭申合や攘夷血盟のメンバーで、当時海外と日本が結んだ不平等な条約に強く反対し、尊皇攘夷に参加しました。明治維新後は司法大臣を務め、また日本大学、国学院大学を創設し、教育者松陰の遺志を実現しました。 ■品川弥二郎 足軽の子として生まれ、松下村塾に15歳の時入塾しました。松陰が亡くなった後も塾の勉強会メンバーで、のち攘夷血盟に加わり、英国公使館焼討ちや蛤御門の変などに参加しました。明治維新後は政府高官となってヨーロッパ諸国に滞在、外交方面で活躍したり、内務大臣を務めました。 |
■渡辺蒿蔵 天野清三郎は武家の家に生まれ、松下村塾には16歳の時に入りました。熟に寝泊まりして学び、松陰はその学識を高く評価していました。のち長州藩の海軍所に入り、馬関戦争や奇兵隊創設にも参加しました。明治維新後は長崎造船所の創設に貢献し、また松陰門下生の中で最も長命で、97歳まで生きました。 ■野村和作 足軽の子として生まれました。16歳の時に兄の入江九一とともに松下村塾に入塾しました。松陰が最も信頼する門下生の一人でした。松陰没後は京都や江戸で村塾グループの尊皇攘夷運動に参加し、四境戦争や戊辰戦争で各地を転戦しました。維新後は政府高官となり、内務大臣を務めました。 |
■山縣有朋 下級武士の子として生まれ、松下村塾に21歳の時に入りました。奇兵隊血盟に加わり、その中心的な役割りを担いました。高杉晋作の挙兵、四境戦争、戊辰戦争などで奇兵隊をひきいて活躍し、明治維新後は軍隊の近代化、確率につとめ、内閣総理大臣や枢密院議長などを歴任しました。 ■木戸孝允 (桂小五郎) 藩の医者の子として生まれました。幼名を小五郎といい8歳で桂家の養子となりました。吉田松陰とは藩校明倫館で知り合い、のち交流をつづけ、江戸での松陰門下生たちの世話もしました。幕末には薩長同盟を結び、また西郷隆盛。大久保利通とともに明治維新の三傑と呼ばれています。 ■伊藤博文 熊毛郡束荷村の農民の子としてうまれました。17歳の時に、来原良蔵に認められて、その紹介で松下村塾に入塾しました。松陰は伊藤を周旋屋 (世話好き) と評しています。維新後は国会の開設、憲法制定など明治日本の確立に中心的役割を果たし、日本最初の内閣総理大臣なりました。 |