■世界遺産 萩反射炉 世界遺産 明治日本の産業革命遺産(製鉄・鉄鋼・造船・石炭産業) 萩反射炉は、世界遺産一覧表に記載された明治日本の産業革命遺産の構成資産の1つです。
反射炉は西洋で開発つれた金属溶解炉である。日本へは欧米列強に対する危機感が高揚した江戸時代後期、反射炉の知識が蘭書によってもたらされ、幕府や一部の藩でその導入に取り組んだ。それは、旧来の大砲に代わる鉄製の洋式大砲を必要としたからである。 嘉永4年(1851)佐賀藩が日本で最初に反射炉を完成させ、薩摩藩、伊豆韮山代官所(幕府天領)、水戸藩、萩藩(長州藩)が続いた。また民間でも、安心院(大分県)、六尾(鳥取県)、大多羅(岡山県)などで反射炉が導入された。 それらのうち、反射炉の遺構は現存するのは、伊豆韮山と萩の2カ所だけであり、わが国の産業技術史上たいへん貴重な遺跡とされている。 萩藩において、ペリー来航後の安政年間に反射炉の導入が試みられた。同藩は安政2年(1855)西洋学所を開設し、翌年造船所を設立して洋式軍艦丙辰丸(へいしんまる)を建造するなど、軍備の拡充に努める。同藩はこれら軍事力強化の一環として、反射炉の導入にも取り組んだのである。 従来、萩の反射炉は安政5年(1858)に築造されたと考えられてきたが、現在、記録で確認できるのは、安政3年(1856)の一時期に「雛型」(試験炉)が操業されたいうことのみである。したがって近年では、萩藩には実用炉の存在は認められず、この反射炉は試験路であったという味方が有力視されている。と説明板に書かれています。
また、萩反射炉の構造等の説明板には次の説明があります。 ■萩反射炉 現在残っている遺構は、萩反射炉の煙突にあたる部分である。高さ11メートルの安山岩積み(上方一部煉瓦積み)の煙突は、基底部が前面5.45メートル、側面3.8メートルあり、上に向かって幅を狭める長方形で、下方に2つのアーチ型の煙道孔が開いている。上方で二股に分かれているようにも見えるが、実際はそれぞれ独立した煙突になっている。 昭和53年からの発掘調査では、炉床とみられる遺構が2本の煙突に対応して確認され、おもに西側の炉床で操業されたと考えられている。また、煙突前方の広場では建物、囲、棚が発掘されており、現在、これらの位置は低い土壇で表示し、柱の位置に玉拓植を植えている。 ■反射炉の構造と特徴 反射炉の構造は、炉と煙突に大きくわけられる。アーチ形の炉では、後方の燃焼室で焚いた燃料の炎や熱を天井に反射させ、前方の溶解室に置いた金属を溶解した。また、炉内を高温に保つ必要があるため、高い煙突を利用して空気を大量に取り込んだ。 これによって、鉄に含まれた炭素と酸素を結合せ、二酸化炭素を排出し、鉄に含まれる炭素の量を減らすことが可能となる。「硬くてもろい鉄」を「軟らかくて粘りのある鉄」に変えるこが、反射炉の大きな特徴だったのである。
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