■旧志免砿業所堅坑櫓 (国の重要文化財) 「堅坑櫓」では、ゲージと呼ばれる箱を使って坑員を地下の石炭層までおろし、そこで掘り出した石炭を地上に運ぶ作業が行われていました。建物の形をワインディングタワー(塔櫓巻型)といい、建物の真下に掘られた縦穴(堅坑)を使い、深さ430mまでいける巨大なエレベーターと考えればわかりやすいでしょう。もともと5階まで骨組みだけが造られ、6階から壁があらわれます。8階部分は吹き抜けの大空間で、1000馬力もある巻上機が休みなく動いていました(現在、中の機械は取り外されています)。 こうした大規模で先進的な施設が造られたのは、この炭鉱が海軍が経営していたことと深く関わっています。第二次世界大戦当時、石炭の大量にしかも安定して生産することは軍事上とても重要なことでしたから、軍部は地表近くの浅い層の石炭だけでなく、より深い層の石炭を採掘するため、この「東洋一」といわれた堅坑の建設を推し進めたのです。そして終戦後も多くの石炭を生産し、1957(昭和32年)には堅坑だけで21万トン以上が採掘されました。しかし1964(昭和39)年に炭鉱は閉山し、堅坑もその役目を終えました。 九州におよそ100あった堅坑のなかで、終戦前に造られた同じ形の堅坑櫓は、ここと四山第一堅坑(三井三池炭鉱、荒尾市)だけでした。現存するものは、世界をみても志免、ベルギーのブレニー、中国の撫順だけだといわれています。志免町に今も残る堅坑櫓は、わが国の近代化を支える大切な場所であったと同時に、現存する最大規模の近代堅坑櫓として歴史的価値が高く、産業技術史の上でも貴重な遺産であるといえるでしょう。さらに建物そのものの姿をみたとき、機械的で無駄のないフォルムは近代の精神そのものをみごとに表現していることに気づかされます。 この堅坑櫓が、志免町のランドマーク、そして歴史と文化のシンボルタワーとして、広く親しまれ続けることを願っています。 説明板に書かれています。 ■第八坑本御坑口関連施設 堅坑の隣接地に斜めに開けた第八坑が掘られました。コンクリート製の坑口で、高さ3.2m、幅4.5mのアーチ構造で傾斜角40度、延長距離は690.8mの設備で1940(昭和15)3月に完成、1943(昭和18)年に堅坑との間に連絡坑道が地下深いところで結ばれました。 隣りあう施設は、石炭生産の集約された最盛期のようすを今に伝えています。また、堅坑、第八坑の東側(現在のシーメイト敷地内)は、発電所や事務所などがあったところで、その先には住宅が立ち並ぶ人々の生活の場所がありました。と説明板に書かれています。
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