垂直に掘られた「堅坑」を使って、地下600mもの深さにある石炭の層へ移動することができました。建物の形はワインティングタワー (塔櫓捲型)


日本近代化遺構 旧志免砿業所堅坑櫓


■旧志免砿業所堅坑櫓 (国の重要文化財)
「堅坑櫓」は、働く人と掘った石炭を昇降させる機械を設置した建物です。この建物と垂直に掘られた「堅坑」を使って、地下600mもの深さにある石炭の層へ移動することができました。建物の形はワインティングタワー (塔櫓捲型) といいます。それは、櫓と巻き上げる機械がひとつになった、エレベーターのようなしくみです。
当時、九州にあったおよそ100の堅坑のなかで、昭和20年(1945)の終戦前に建設されたワインディングタワーは、この堅坑と四山第一堅坑 (三井三池、大牟田市) だけです。また、世界中をみても、この形の建物が壊れることなく残っているのは、志免(日本)・ブレニー(ベルギー)・撫順(中国)の3カ所が確認されているだけです。世界の産業技術史においても大切な遺産といえます。
北部九州には数多くの炭田がつくられましたが、これは、日本が近代国家に生まれ変わるために、エネルギーとして使う石炭が必要だったためです。なかでも、ここ糟屋炭田は質のよい石炭であり、海軍が明治22年(1889)に新原採炭所(須江町)をつくり、戦艦などの燃料となる石炭を掘りだしたのです。志免町には海軍採炭所第五坑として、明治39年(1906)に石炭の採掘が始まりました。 海軍採炭所は海軍燃料廠採炭部と名前を変え、それまでのような地下の浅いところにある石炭の層だけでなく、より深い層の石炭を採掘する計画をします。石炭を大量に、しかも安定して生産することは、軍事上、大変に重要なことでしたから、当時「東洋一」といわれた堅坑の建設が進められ、櫓が完成しました。
第二次世界大戦後、日本国有鉄道志免砿業所となります。戦前の目的とは違って、国民の大切な交通機関であった蒸気機関車の燃料となる石炭を採掘しつづけました。しかし、石油などを使うようになったため(エネルギー革命)、昭和39年(1964)に閉山をむかえました。
開坑から閉山まで国営でありつづけた炭鉱は日本では一カ所で、この櫓は志免町が日本近代化を支えた大切な場所であったことを物語っています。
そして櫓は、わが国に現存する最大規模の近代堅坑櫓として、国の重要文化財に指定されました。現在は、斜坑口やボタ山(硬石)といつた炭鉱の遺跡群が周囲に保存されています。今後は志免町のランドマークとして広く親しまれることを願っています。志免町教育委員会
と配布資料に書かれています。


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