四季折々の自然と歴史のドラマに彩られた閑寂の世界

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2015' MAY 02 Message

北岡自然公園は熊本市街の西方、花岡山の麓にあり、細川家菩提寺妙解寺跡として、園内の一画には今も歴代藩主や妻子、歴代住職などの墓が並んでいます。妙解寺は寛永19年 (1642) 、細川家三代忠利公の菩提を弔うため建立さりました。寺名も忠利公の法名妙解院殿台雲宗伍大居士からとったものです。維新後は「神仏分離令」に伴い寺が廃止され、細川邸となり「御内家」とよばれていましたが、昭和30年熊本市が譲り受けて自然公園として整備、一般に公開したものです。 * ♪


+ + 北岡自然公園 細川家菩提寺 妙解寺跡 + +

■北岡自然公園 細川家菩提寺 妙解寺跡
北岡自然公園は熊本市街の西方、花岡山の麓にあり、細川家菩提寺妙解寺跡として、園内の一画には今も歴代藩主や妻子、歴代住職などの墓が並んでいます。
妙解寺は寛永19年 (1642) 、細川家三代忠利公の菩提を弔うため建立されました。寺名も忠利公の法名妙解院殿台雲宗伍大居士からとったものです。維新後は「神仏分離令」に伴い寺が廃止され、細川邸となり「御内家」とよばれていましたが、昭和30年熊本市が譲り受けて自然公園として整備、一般に公開したものです。
園内は「熊本藩主細川家墓所」として泰勝寺跡 (立田自然公園) とともに国の史跡に指定され、自然の丘陵の景観を生かすとともに枯山水庭園やバラ園などが配され、市民の憩いの場となっています。
寺跡の裏山は墓地となっていて、正面の忠利公夫婦と四代光尚公の霊廟があります。ここを藩祖廟とも呼ぶのは忠利公が肥後初代藩主てあり、細川藩の基礎を確立したからです。また奥の墓地には相撲の神様、司家を熊本に招いた五代綱利公や、宝暦の改革で知られる八代重賢公などの墓があり、肥後細川家の歴史がしのばれます。忠利廟を囲む殉死者の墓群の中には森鴎外の「阿部一族」で有名な阿部弥市右衛門の名を見ることができます。


■細川家霊廟
旧妙解寺の墓地へと続く石灯籠の間を抜け、高い階段を上ったところが細川家霊廟です。正面に江戸時代初期の様式を残した三つの霊屋が並び、中央が細川家三代忠利公、右が夫人、左が四代光尚公。さらに奥まった墓地には五代綱利公以降の歴代藩主の墓が続き、徳川時代の地方大名墓を価値の高い史跡となっています。
■三霊廟と唐門
妙解寺墓地は、歴史的価値が高く国指定史跡となっています。中でも忠利公夫婦と光尚公の三霊廟及び唐門は、江戸時代初期の藩祖廟として貴重な建造物で、三霊廟は方形造りで唐門と格子塀をめぐらしており、いずれも向拝がつき、いかにも風格と由緒ある構えです。
■殉死者の墓
霊廟を今も守護するかのように、その周囲を整然と並んでいるのが殉死者の墓。向かって右が忠利公に殉じた十九人、左が光尚公の十一人。「阿部一族」の阿部弥市右衛門をはじめ、武士道の厳しいモラルを誇りかけているかのようです。 参照 : 北岡自然公園 見学時のパンフレットによります。


+ + 立田自然公園 細川家菩提寺泰勝寺跡 + +

■立田自然公園 細川家菩提寺泰勝寺跡
細川家の菩提寺泰勝寺 (たいしょうじ) 跡です。ここには細川家初代藤孝夫婦と二代忠興夫婦の墓「四つ御廟」をはじめ、第十代斉茲以下の藩主の墓があり、園内には杉立木に囲まれた「苔園」と茶室「仰松軒」があります。
■仰松軒
武人でありながら、当時茶道らかけては国内随一といわけた細川忠興の原図に基づき、大正12年に復元されたもので、風流を極めた造りです。
茶室仰松軒の前庭に苔むした石灯籠と水手鉢があります。京都で忠興が愛用したもので手水鉢は豊臣秀吉ゆ忠興の茶の師千利休も使用したと伝えられている由緒の品です。歴代の細川藩主は、この石灯籠と手水鉢を参勤交代の道中にも持参して、宿ごとに茶をたてては、その風情を賞でたといいます。
この茶室では四季おりおり茶会が催されます。


■四つ御廟 初代細川藤孝夫婦と、二代細川忠興夫婦の墓を総称として、四つの御廟と呼んでいます。
初代細川藤孝は歌道に秀で、後陽成天皇の弟智仁親王に古今集の秘伝を伝えた。その古今伝授の間は、大正元年に復元されて水前寺成趣園内にあります。
二代細川忠興は武人でありながら、当時茶道にかけては国内随一といわれ、利休の七哲の筆頭に数えられるほどの人でした。その流れが今日の茶道肥後古流です。
忠興のとなりが玉子 (ガラシャ)です。忠興の妻玉子は明智光秀の三女で、洗礼名を「ガラシャ」といいます。織田信長の仲立ちで細川忠興に嫁し、幸福な日々を送っていましたが、天正10年、父光秀の謀反により、その縁につながる者という理由で、心ならずも別居を余儀なくされ、味土野へ幽閉されました。のちに秀吉のはからいによって同居を許されています。
関ヶ原の合戦直前、大阪方では東軍に味方する諸大名の動きを封じるため、妻子を人質にしようと、大阪城内に入るよう要請がありましたが、ガラシャはあくまでそれを拒み、大阪方の催促の使いのものは兵を引き連れ屋敷内に押し込む気配を見せました。仕えていた女子達すべてに暇を与えて、屋敷からのがし、屋敷に火を放ち、自害。屋敷は猛火につつまれたといいます。ガラシャ38歳。波乱に富んだ人生であった。
■ガラシャ夫人愛用のつくばい
「四つ御廟」の前のまるい手水鉢がガラシャ夫人愛用のものです。彼女の美しい顔を水面に映したであろう鉢はこもれ陽をあびて、ひっそれ佇んでいます。 ガラシャ夫人辞世の句 「散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」

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●水前寺成趣園

藩士主細川忠利から三代にわたって造られた桃山式の回遊庭園。東海道五十三次を模して
熊本の豊かな湧水を巧みに利用した




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