鉄砲小路は、寛永12年 (1635) 正月、当時の熊本藩主、細川忠利の命によって新設された地筒(地鉄砲)の村

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2015' NOV 21 Message

鉄砲小路は、寛永12年 (1635) 正月、当時の熊本藩主、細川忠利の命によって新設された地筒(地鉄砲)の村で、90名にのぼる地筒集団は他に例をみない最大の規模であったものです。 そのねらいは、非常時におけめ軍備の強化と、未開墾地の開拓による増収、更には、一番むずかしいと言われた浪人対策の一つであったものです。 * ♪


+ + 熊本県 下益城郡 菊陽町 鉄砲小路 (てっぽうこじ) + +

■鉄砲小路

蘇古鶴神社 (そこつる神社) の楼門 (ろうもん) 脇の説明板は、神社、楼門及び鉄砲小路を次のように説明しています。
現在は、上・下堀川の二行政木に分かれておりますが、「鉄砲小路」の古い地名の方が良く知られ、親しまれております。
鉄砲小路は、寛永12年 (1635) 正月、当時の熊本藩主、細川忠利の命によって新設された地筒(地鉄砲)の村で、90名にのぼる地筒集団は他に例をみない最大の規模であったものです。 そのねらいは、非常時におけめ軍備の強化と、未開墾地の開拓による増収、更には、一番むずかしいと言われた浪人対策の一つであったものです。
月五日は城中に出仕し、その他は、武術の錬磨と農耕に従事、一旦事あるときは、鉄砲隊として主君に奉仕するのが任務だったのです。 寛永14年 (1637)) の天草の乱には56人、その他、小倉戦争、慶応4年の鳥羽伏見の戦いには101名が参加しております。 組合員が協力し合い、授け合って諸事に当る旧来は美風は今も尚、受け継がれております。総代1名、小頭6名、組横目 (くみよこめ) 7名、地筒76名 屋敷前口 15間 (約28m) 小頭 20間 (約37m)の幅で、中央通路をはさんで、北側に住居、南側に納屋、東西約4キロに亘って整然と立ち並んだ景観はたしかに異彩そのものだったことでしょう。


+ + 色の付いた狛犬 蘇古鶴神社 (うひづるじんじゃ) + +

■蘇古鶴神社

蘇古鶴神社は、鉄砲小路の氏神として、氏子の繁栄と武運長い久を祈念して、寛永一二年九月、細川忠利公の命によって勧請されたものです。
祭神 阿蘇一宮 (健磐竜命 たけいわたつのみこと) 阿蘇二宮 (比淘蜷_ ひめおおかみ) 「楼門」と豊岩窓神」が祀られ、更に元禄9年(1966)正月、天満宮社殿が併設されました。
堀川(瀬田上井手)の起源について
集落の北、約50mを流れる「堀川」は、現在の区名のもとになっています。上流を瀬田上井手と言い、寛永七年、加藤忠広公によって着工されましたが、加藤氏改易となって中断し、寛永一一年(1634)再開、同一四細川氏によって完成したものです。この開削によって水田化がすすむ一方、沢山の新しい村が誕生しました。

■蘇古鶴神社の楼門 色の塗られた狛犬
鉄砲小路の鳥居から境内の参道を進むと楼門です。蘇古鶴神社は、熊本府から東北方の「鬼門」にあたるところから、また、この地に地鉄砲の者を仕立てるため、「鬼門」の厄を払い、併せて、鉄砲町(地鉄砲)の「守護神」として勧請されたものです。楼門は、銅葺き2層建築。奥行き3.06メートル、間口3.99メートルで、楼門内には門神「奇岩窓神」・「豊岩窓神」の2神を祀っています。楼門内には、風塗られた小さな狛犬が安置されています。本来の狛犬は、石で造られ、拝殿の手前に置かれています。

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●蘇古鶴神社「狛犬」

●蘇古鶴神社「狛犬」




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