■旧細川刑部邸細川(長岡)刑部家(刑部少輔家)は細川家三代(肥後藩初代)。忠利公の弟。刑部少輔忠孝が正保3年(1646)に二万五千石を与えられて興したものです。興孝は、延宝6年(1678)に子飼(熊本市東子飼町)にお茶屋をつくり、後に下屋敷としました。その後元禄年間や宝永年間にも造作がおこなわれ一門として格式を整えました。刑部家は代々「刑部」(ぎょうぶ)か「図書」(ずしょ)を名乗り、家禄一万石で活躍しました。明治4年(1871)熊本城に鎭西鎮西が置かれ、城内の武家屋敷は城外に移るようにとの命により、時の刑部家の当主興増は、同6年(1873)子飼に移り、下屋敷を本部として整えました。旧細川刑部邸は建坪三百坪(990平方メートル)あり、長屋門を入ると、唐破風の御玄関にいたります。ついで御客間から入側造りの表御書院、二階建の一春松閣」とつづきます。別棟は、書斎の付いた茶室「観川亭」、御宝蔵、台所があり、風雅な上級武家屋敷としての格式をもっています。
熊本市では、平成2年度からの「ふるさとづくり特別対策事業」により三の丸の用地を取得し、四か年をかけて移築復元したものです。昭和60年に熊本県重要文化財に指定されています。■細川(長岡)刑部少輔家の歴史 細川刑部少輔家は、肥後に入封した細川家三代(肥後藩初代)・忠利公の弟興孝が刑部少輔に任じられて興しました。忠利公の次男立孝は宇土支藩主、末弟の寄之は八代松井家の養子となりました。興孝は従五位下に叙任され二万五千石を与えられて、細川一門の中でもとくに重用されました。三代興知から長岡性となり、藩財政のため一門の知行を差し上げて、一万石となりました。六代彩彭は、名君といわれ肥後藩主重賢の実弟で、十代興昌、十一代興増は幕末の動乱のさい、藩主の名代として京に上るなど活躍しました。細川性に復した興増は、明治維新後もしばらく熊本城代として、鎭西鎮台側と折衝に当たり、西南戦争のさい尽力した功により、正六位男爵に叙せられました。その後も近代化を急ぐ熊本市に対して警察署や小学校の建築などで多くの協力をしています。
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●「熊本城」
加藤清正は、天正19年から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめ加藤清正築城の難攻不落の城 熊本城
●細川家菩提寺泰勝寺跡
細川家の菩提寺泰勝寺 (たいしょうじ) 跡です。ここには細川家初代藤孝夫婦と二代四つ御廟の前の手水鉢はガラシャ
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