処女作「業苦」、続いて「崖の下」を発表、後に「途上」、「神前結婚」などの名作を世に出し、昭和初期の文壇で確たる地位を築いた作家

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2017' MAY 27 Message

嘉村磯多は大正14年(1925)、文学の世界に自己の表現を求めて上京、処女作「業苦」、続いて「崖の下」を発表し文壇に登場、後に「途上」、「神前結婚」などの名作を世に出し、私小説の極北と評され昭和初期の文壇で確たる地位を築いた作家です。 * ♪


+ + 嘉村磯多 生家 + +

■嘉村磯多
嘉村磯多 (かむら いそた) は、明治30年(1897)に、地主嘉村若松の長男としてこの地に生まれました。少年時代から文学に親しみ、特に徳富蘆花の「自然と人生」を愛読しました。さらに親鸞の教えに出会い影響を受けました。
大正14年(1925)、文学の世界に自己の表現を求めて上京、処女作「業苦」、続いて「崖の下」を発表し文壇に登場、後に「途上」、「神前結婚」などの名作を世に出し、私小説の極北と評され昭和初期の文壇で確たる地位を築きました。
昭和8年(1933)、東京で数え年37歳の若さで他界、わずか6年の作家生活の幕を閉じました。
彼の作品「上ケ山の里」の(私は都会で死にたくない/異郷の土にこの骨を埋めてはならない」の希望どおり、古里の地にかえり永遠の眠りにつきました。と駐車場脇の説明板に書かれています。
また、磯多没後の昭和57年(五十回忌)、磯多のかつての母校である大富小学校跡に、「嘉村磯多五十回忌記念行事実行委員会」によって文学碑が建立された。(この地宮野常栄寺へ昭和三十二年文学碑、磯多生家に生誕碑が建立された。)
さらに、磯多の眠る墓地へ行くには上ケ山公会堂の前の橋を渡って山道(磯多たちの通学路でもあった)を200メートルばかりさがった右手にある。と説明されています。

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