■嘉村磯多 嘉村磯多 (かむら いそた) は、明治30年(1897)に、地主嘉村若松の長男としてこの地に生まれました。少年時代から文学に親しみ、特に徳富蘆花の「自然と人生」を愛読しました。さらに親鸞の教えに出会い影響を受けました。 大正14年(1925)、文学の世界に自己の表現を求めて上京、処女作「業苦」、続いて「崖の下」を発表し文壇に登場、後に「途上」、「神前結婚」などの名作を世に出し、私小説の極北と評され昭和初期の文壇で確たる地位を築きました。 昭和8年(1933)、東京で数え年37歳の若さで他界、わずか6年の作家生活の幕を閉じました。 彼の作品「上ケ山の里」の(私は都会で死にたくない/異郷の土にこの骨を埋めてはならない」の希望どおり、古里の地にかえり永遠の眠りにつきました。と駐車場脇の説明板に書かれています。 また、磯多没後の昭和57年(五十回忌)、磯多のかつての母校である大富小学校跡に、「嘉村磯多五十回忌記念行事実行委員会」によって文学碑が建立された。(この地宮野常栄寺へ昭和三十二年文学碑、磯多生家に生誕碑が建立された。) さらに、磯多の眠る墓地へ行くには上ケ山公会堂の前の橋を渡って山道(磯多たちの通学路でもあった)を200メートルばかりさがった右手にある。と説明されています。
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