■ 姫原の地名の由来 伊予鉄バスのバス停 「姫原」 松山市姫原にある国道196号線にあるバス停です。 伊予鉄バスのバス停の表示板は、下り方面が従来の鉄製の丸い表示板ですが、上り方面は、電光表示板でバスの到着予定時刻を表示されるものです。 姫原には、悲恋の歴史があり、その故事が姫原の地域の起源となったといいます。 古事記は語ります。 道紀元435年、允恭 (いんぎょう) 天皇の皇太子、木梨軽太子 (きなしかるのみこ) は、実妹・軽太郎女 (かるのおおいらつめ) と許されない恋におち、太子は伊予の湯に流された。 姫は恋しくてたまらず追いかけて来たが、二人はついに、この地で亡くなられた。 「姫原」 というこの地には、二人を祀った 「軽之神社」、 神社の奥の山裾に二人の塚と言われる比翼塚があります。 比翼塚には見事な桜があり、里人はこの桜を大切にしています。付近のミカン畑には 「お能畑」 「客畑」 など、何かしら由緒ある地名が残っています。 姫原は 「古事記」 に綴る 悲恋な物語の地。 と、 説明されています。 |
■ 古事記に見る 「梅原」 古事記は語る。 木梨之軽王は、允恭天皇の崩御の後、天皇に即位しないうちに、同母妹の軽太郎女と密通した。 このときのお歌は あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下どひに わがとふ妹も 下泣きに わが泣く妻を こぞこそは 安く肌触れ 意味は、学研文庫 梅原猛著 「古事記」 によると 山田をつくっているが、山が高いので、地の中を樋をつくって、こっそり水を引く。そのように、こっそり言い寄った恋人を、こっそり泣いたわが妻を、今夜こそ、思う存分愛撫することができる。 と 歌っていると説明されています。 古事記は、続きます。 捕えられた軽王は、伊予に流されようとするとき、お歌いになる。 「あまとぶ 鳥も使いて 鶴が音の 聞えむえむ時は 名問はさね」 意味は、空を飛んでいる鳥もわたしたちの使いなのだ。鶴り泣く声が聞こえたならば、わたしのことを鶴に聞いてくれ。 と 歌っていると説明されています。 離れ離れとなった軽太郎女は恋しさに耐えきれず、ついに軽王の後を追って、伊予国に行かれた。そのときの、お歌いになった。 こもくりの 泊瀬の山の 大丘には 幡張り立て さ小丘には 幡張り立て 大丘よし 仲定める 思い妻 あはれ 槻弓の 臥やる臥やりも 梓弓 起てり起りても 後も取り見る 思い妻 あはれ。 と 歌っています。意味は、泊瀬の山の、大きな丘には幡立て、小さな丘にも幡立て、大きな丘と小さな丘が仲良く並んでいる。そのような仲の良い、わが愛する妻よ。ああ、槻弓のように寝ているときも、梓弓のように立ってるときも、やさしく愛撫していたおまえを、末永くいたわっていたと思うのであるが。ああ。可哀想なことだ。 と 歌っています。 姫原に関する古事記の最後の段。 「こもりくの 泊瀬の河の 上つの瀬に 斉杙を打ち 下つ瀬に 真杙を打ち 斉杙には鏡を懸け 真杙には 真玉を懸け 真玉なす あが思ふ妹鏡なす あが思ふ妻 ありと言はばこそよ 家には行かめ 国をも偲ばめ と 歌っています。 こう 歌って、間もなく、一緒に死んでしまわれた。
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