記念館は、明治24年(1891)イギリス国教会の伝道師として熊本に赴任し、ハンセン病患者のために生涯を捧げたハンナ・リデルとエダ・ハンナ・ライトの両女史 遺品や功績が展示されています ... 。
■ハンナ・リデル Hannah Riddrll (1855-1932)■エダ・ハンナ・ライト Aad Hannah Wright (1870-1950) > |
記念館配布パンフレット抜粋 ■初めてハンセン病患者を見た ハンナ・リデルは、ロンドン郊外のバーネットで生まれ、明治24年(1891)、英国国教会の宣教師として来日し、熊本にやって来ました。35歳でした。来熊後、咲き誇る桜並木の下にうずくまるハンセン病患者たちの姿を見た時、生涯をかけてこの人たちと生きようと決意したのです。 当時、ハンセン病は「不治の病」とされ、人々に恐れられていました。「我等もし心狂えるならば神の為なり」この言葉は、その時のリデルの覚悟を物語っています。 同じ船で一緒に来熊に来たグレイス・ノットを同志として、また医師田尻寅雄や花見に同行した五校教授本田増次郎などの協力を得て、明治28年11月12日「回春病院」を創設しました(英語名は「THE KUMAMOTO HOSPITAL OF THE RESURECTION OF HOPE」)。
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■国を動かす リデルの非凡さは、患者救護り先駆者だっただけでなく、国を動かした事であります。日露戦争の時、英国からの送金が途絶えがちになりました。リデルは、大隈重信に回春病院ほの援助を求め、またハンセン病患者の救済は国家の義務でもあると訴えました。かねてこの問題に大きな関心を持っていた渋沢栄一らは、リデルを支援すると共に、ほとんど顧みられる事のなかったハンセン病問題を国家問題に転化させました。 明治40年(1907)に法律第11号(「癩予防ニ関スル件」)が制定され、全国の5つに療養所が出来ました。この時は、患者の救護に重点が置かれ、必ずしも隔離するためのものではありませんでした。記念館には大隈重信からリデル宛ら「政府がこの問題に乗る出す」事を伝える書状が残されています。 しかし、時代の流れと共に、法律第11号は、昭和6年(1931)、28年と改定されて「らい予防法」となり、隔離の思想を強めていきました。戦後、新薬によりハンセン病は「不治の病」ではなくなりました。「らい予防法」は平成8年(1996)にようやく廃止されています。
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■患者伝動と降臨教会 両女史は、各地の患者たちへのキリスト教伝道に、強い使命感を抱いていました。なかでも療養所が出来る前の草津と沖縄伝道には特に力を注ぎました。 草津は後に、英国のコンウオール・リー女史が活躍します。沖縄には回春病院から患者青木恵哉が派遣されます。青木が患者たちの指導者となり、粘り強く行動し、療養所建設などに力を尽くす姿勢は感動的です。 大正13年(1924)、敷地内に「降臨教会」の聖堂が完成します。その正面は、設計当初からなだらかなスロープでした。また、車椅子ほ英国から輸入するなど、患者を想う心は自然に福祉の先駆けとなっています。 庭の日時計には、世に隠れ住んでいた人々に明るい太陽の光の中で生活して欲しいという願いがこめられています。 現在3代目となる教会の中ては、回春病院当時からの祭祀具や両女史愛用のオルガンなどを見る事ができます。 |
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■ 大柄で行動力のあるリデルは大輪のバラ、小柄で清楚なライトはスミレの花のようだと言われていたといいます。 |
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■ライトが引き継ぐ リデルの姪、エダ・ハンナ・ライトは、回春病院創設の翌年にには来日し、リデルの手伝いまい。その後関東地方での宣教に従事しますが、大正12年(1923)末に熊本に帰り、昭和7年(1932)、リデルが永眠すると2代目院長になります。 ライトは美しくやさしい人でした。患者と共に生活しようと現記念館の2階に移り住み、毎夕、各部屋に声をかけてまわるのを日課にしていました。患者の間では、大柄で行動力のあるリデルは大輪のバラ、小柄で清楚なライトはスミレのの花のようだと言われていました。 |
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■近づく戦争の暗雲、そして悲劇の日 昭和15年(1940)、病院主事飛松甚吾や降臨教会牧師豊福浪雄が警察署に拘留され、ライトはいわれなきスパイ容疑で調べられます。嫌がらせが目的の不条理な質問、2階には警察官が泊まり込みで監視しました。 そして昭和16年、リデルの名地にである2月3日、集会所に集められた患者たちは、突然病院解散を宣告されました。予防衣姿の係員が畳の部屋に土足で踏み込み、勝手に荷造りして外にほうりだします。患者たちは強制的にトラックに乗せられ、九州療養所へ移送されていきました。たまりかねたライトが、最後のトラックにしがみつして引きずられるます。それに応えるように、車の中では自然に讃美歌が湧き起りました。これが46年続いた回春病院の最後の日となったのです。 同年4月2日、傷心のライトはオーストラリアに旅立ちました。事実上の国外追放でした。 |
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■それでも帰って来てくれた 昭和23年(1948)、78歳だったライトは、再び熊本に戻って来ました。しかし住まいは家具もなくなり、住める状態ではありませんでした。医師用住宅(現駐車場)がライトの最後の家になります。「龍田寮」(ハンセン病患者を親に持つ子供たちの寮)の子供たちのひとときに心の慰めを得ながら、1年8カ月後、最後の時を迎えます。「神様の御恵みにより、私は幸せでした」というメモが残されていました。 2人は今も、患者たちと共に、記念館そばの納骨堂で静かに眠っています。 |
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■両女史ゆかりの記念館 記念館は、納骨堂と共に残った回春病院時代の貴重な建物です。大正8年(1919)にハンセン病菌の研究所として建てられました。リデルは本気で病気を治そうとしていたのです。 設計は当時の建築界の第一人者、中條精一郎です。リデル没後にライトが2階を増築して住んでいました。1階は病院事務室でした。 戦後、回春病院敷地の半分になった「リデル、ライト記念老人ホーム」(平成20年「リデルライトホーム」と改称)の管理棟として利用されてきました。 平成4年(1992)10月20日、この建物は熊本市に寄贈され。平成6年2月3日「リデル、ライト両女史記念館」として開館し、波乱の人生を愛に生きた両女史の顕彰に役立てなれています。 平成20年(2008)3月19日、国の登録有形文化財として登録されました。 |
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