■祭神 甲斐宗立 (かいそうりゅう) 宗立の父 甲斐宗運 (そううん) 創建 天正年間の頃 場所 熊本県嘉島町上六嘉2242番地 鎮座 |
社殿脇説明板 祭神 甲斐民部大輔親直入道宗運公 甲斐相撲守親秀入道宗立公 天正の頃、佐々成政隈本城主として肥後の国に封ぜられ、苛政以て領民の憤激をかう、甲斐宗立菊池武国等の諸将と相謀り一揆を起こし隈本城を攻む、豊臣秀吉戦局容易ならざるを憂慮肥後隣国の諸将に救援をたのむ立花、島津等来り戦う、宗立の軍よく戦い千葉城まで迫る、宗立の軍正面には佐々、後方には立花の軍を相手として一歩も退かず、戦局有利に展開落城寸前宗立の家臣の返り忠により、状況一変宗立の軍混乱終に身を以て馬上一鞭あてて逃る、追手の軍は迫る下六嘉地蔵堂の附近の里人に隠家をたのみ拒絶させられ再び逃れてこの地(現在神社の地)に来りて助けを求む、当斉主の祖先心よくひき受け手厚き看病をなす、秀吉一揆に加担したる者を捕え斬首せられたる者の数四千数百人に及ぶ、首領宗立の検索きびしく隣国の諸将をつかわして探す、戦後半年の後毛利勢の手により最後を遂ぐ、この間宗立過ぎし昔を偲び或時は父宗建に従い数々の戦い、阿蘇家の家臣として御船城を攻略、其戦功によって御船千町をたまわり、或時は島津軍の先鋒相良義陽の軍を響原の一戦に屠り、武威を九州の中央に覇を唱え島津軍に一歩おも踏み込ませなかった当時の思い出に、現在の武運拙く感慨無量なるものがあった、人間としても苦しみ悩み多く曽門の道に入り、父宗達は大慈禅寺の末寺として辺田見に東禅寺を建立した位仏門に帰依せられた、秀吉佐々成政を肥後の国に封ずるに及び、肥後民衆の苦しみを見るに忍びず一揆を起して秀吉に敵対す、勇将立花佐々政成の軍をものともせず勝ち進み、今一歩と云ふところで部下の裏切りにより、戦局一変壮図空しく崩れ全身深傷を受け身を以て逃る、追手の軍の追及きびしく遂に難を避けこの地の里人(現斉主の祖先)に助けを求む、里人敗戦の将を隠す後難をも恐れず、身を以て隠まい手厚き看病をなす、宗立その手厚きみてなしを喜び己の無き後、鎮魂この世に留り子々孫々を見守り、手足に苦しむ者を救いやるであらうとの遺言を残し遂に当に眠る、斉主祖父祠を建ててその霊を弔う、其後近郷近在の老若男女陸続として来り信仰する者その数を知らず、御利益を受け全快せし諸人の寄進による手型、足型、はてはギブス、ゴルフセット、松葉杖と正に社殿を埋め毎月一日、十五日の御命日には線香の煙終日絶えず、遠くは海外又九州一円さては遠県より参拝者後を絶たず正に手足の守り神として年々神威の発揚益々盛んとなる。と書かれています。 |
手足のけがや病気をなんとか治したい、すがるような思いで、早朝から参拝者が「手足の神様」に静かに手を合わせているといいます。400年以上も前から続く風景です。 また、「甲斐」神社ということで、やりがいが出るといつたご神徳もあるといいます。 |
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■ 甲斐神社 足手荒神 鳥居 鳥居は年々の地盤沈下による低くなっているといいます。また、鳥居に石を投げ、上部にうまく乗れば願いがかなうと信じられています。 鳥居の前の灯篭の上には、左下のひょうきんなしぐさの狛犬が睨みをきかせています。残念なことに、向かって右側の灯篭は倒壊して根元から欠け、最上部にあった狛犬は足元から欠けて落下しています。 |
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■ 甲斐神社 平成28年4月発生の熊本地震によって倒壊した社殿 平成28年4月14日午後9時26分ころ、熊本県を震源とする地震があり、同県益城町では震度7の激しい揺れを観測しています。その後の本震等により甲斐神社を含む多くの神社仏閣や民家に建物倒壊が相次ぎました。 なにも知らず参拝に訪ねた甲斐神社は、社殿が倒壊し、狛犬も壊れていました。残念なことです。 |
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■ 甲斐神社 足手荒神 倒壊した拝殿と社殿 |
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■ 甲斐神社 壊れた狛犬 鳥居の右側にあった灯篭が根元から折れています。灯篭の上部にあった狛犬も足部から壊れて地面に横倒しになっていました。 足元から折れて壊れた狛犬は、本来、灯ろうのあった台座の上に置いて撮影しました。 |
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