■神風連 : 桜山神社 桜山神社は、大正2年に建てられたもので、当初は桜山祠殿と称されました。その後、昭和23年9月に祠殿から神社へとなったことに伴い桜山神社と称されるようになりました。 神殿の奥には「誠忠之碑」と「百二十三士之碑」の二つの碑が建てられており、「誠忠之碑」は、維新の際に国難に殉じた肥後勤王党の宮部鼎蔵 (あがたていぞう) などの二十三士を祭っており、「百二十三士之碑」は、神風連の変にたおれた大田黒伴雄 (おおたくろともお) ら百二十三士を祭っている。 また、拝殿西側には、敬神党百二十三士の墓碑と肥後勤王党の育ての親である林桜園 (はやしおうえん) の墓があります。 現在は、ここには二百七十八柱の霊が祭られています。と説明板に書かれてます。 ■神風連資料館 (入口脇の説明文) 明治9年10月24日深更、熊本藩士族で作る神風連 (敬神党) の志士百七十人余は熊本鎮台などを襲撃、司令長官種田政明、県令安岡良亮らを殺害、砲兵営の兵舎は全焼した。この挙兵で一統の首領大田黒伴雄ら百二十四士も、また戦士 (原文は戦士ですが、たぶん「戦死」の間違い。いや、戦いの士) もしくは自刃して果てた。新政府の急進的な欧風改革を黙認できず、必負を知りつつも、あえて決起にふみきったのであった。いわゆる神風連の変である。 この事変に関する世評一般は、必ずしもかんばしいものではない復古主義的不平士族の反乱とか、頑迷固陋 (ころう) な攘夷狂の暴挙とかいわれて片づけられてきたきらいがある。 これに対し、「なにたる暴言か」ち唇をかんで立ち上がったのが、今はなき荒木精之氏であった。昭和16年のことである。氏は志士たちの「概世憂国の深さ」に打たれ、決起の「至誠、あわれさ」感応し、以来、一貫して神風連の何たるかを探り極め、その心わ訴え続けてきた。氏はとりわけこの事変を、わが国古来の敬神の精神にもとづく信仰的挙兵であった、と力説する。 その志士たちの師、林桜園の教義を受けつぐものであり、だから志士たちは、決起にのそせみ宇気比 (うけひ) と呼ばれる神慮を乞うているのである。 資料館は、その神風連を後世長く伝えたいという荒木氏の熱い呼びかけと奔走によって誕生した。氏を代表とする建設期成会が設けられるや、趣旨に賛同し浄財を寄せる人は全国から千五百人、寄付はわずか四か月で二千四百万円に達したという。これらの芳志を結集して資料館はできあがった。昭和五十三年十一月五日会館。貴重かつなまなましい遺品墨五百余点を中心に年表、図表、劇画なども添えられて、理解の便がはかられている。しずかに神風連の心を考えるところとして、神風連の精神はここにおいて蘇ることができたのである。 と資料館脇の説明文に書かれています。
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