内子座の由来は建物の入口に次のように説明されています 内子座は大正5年(1916)に 大正天皇即位の大典を記念して建てられた歌舞伎劇場です 江戸時代から町民 近隣在郷の人たちの娯楽であった歌舞伎や人形芝居を鑑賞する殿堂として 有志18人の発起により「大典記念株式会社」を興し 建築費3423円を投じ 地元の大工 左官によって完成したものです
建物は この時代に全国的に建てられた劇場を基本に習い 妻側を正面にした木造瓦葺き2階建てで 歌舞伎劇場として備えるべき回り舞台や花道などを備えています また洋風小屋組(トラス工法)であるため 舞台から観客席にかけての天井の空間が広々としています
劇場は時代の変遷とともに映画館や商工会館に転用され 部分的な改造が繰り返されました しかし昭和50年代に始まる内子町の歴史的環境保全運動の一環として保存の機運が高まり 3か年と総事業費7020万円をかけて 昭和60年(1985)復元完成したものです と説明されています |
町並保存地区の駐車場の説明板は次のように伝統的建物群保存地区を説明しています 内子町八日市護国伝統的建物群保存地区は昭和57年4月17日に指定され その面積は約3.5ヘクタールです
内子は 江戸時代の中期から在郷町として栄えた町である かつての市街地は願成寺を中心とした廿日市村 現在の商店街を核にした六日市村 八日市村 小田川の対岸の知清村の4つから成り立っていた 肱川支流に点在する集落で生産された和紙は 六日市村 八日市村の商家を経て阪神へ出荷され 大洲藩の財政の一端を担っていた 江戸時代の末期から明治時代には 櫨の実から抽出した木蝋を良質の晒蝋に精製し 広く海外にまで輸出するなど 大きい地場産業として大いに繁栄したところである
八日市・護国の伝統的な町並みは かつてこんぴら参詣や四国へんろの旅人が往き交じったところで 蝋商芳我家を中心に2階建て 平入り 瓦葺の主屋が600メートルにわたって連続する 伝統的な建物の多くは江戸時代末期から明治時代に建てられたもので 白あるいは黄色味を帯びた漆喰の大壁造りである 正面は蔀戸や格子を構えで 袖壁をつけ 往時の姿をよくとどめている 内子町は これらの伝統的な町並みを後世に伝えるため 積極的に保存活動に取り組んでいる と説明されています |
大洲や内子地方(肱川の中流域や上流域
では 江戸時代の中頃から蝋を搾っていました 巨大な木を組んで搾る機械 立木式蝋搾り機が 中国地方からこの地方に伝わると 当時大変高価であった蝋が大量に搾れるため 次々に組み立てせれました 特に山間部では 櫨の実を収穫して搾る作業が盛んでした これらの蝋は 平野部(内子の市街地)に運ばれ 精製されて白い蝋になり外国まで売られました
精製技術が優れていたので 白い蝋は品質が良く 明治期の中頃(製蝋の最盛期)には莫大な利益をもたらしました しかし 西洋蝋(パラフィン)の発明や電気の普及などにより 蝋の需要が少なくなると明治時代末期頃から衰え始め 大正時代の終わりにはなくなりました 内子町では 蝋で栄えたことやそれを支えた人々の労働 工夫された技術などを後世に伝えるため 昭和63年にこの蝋搾り小屋を建てました と説明されています |
木蝋資料館上芳我邸に植えられている櫨の木です 晩秋の木の姿で 葉は落葉し櫨の実がたくさん付いています 櫨の実は 蒸して圧搾して採取される高融点の脂肪である木蝋は 和蝋燭のほか 坐薬や軟膏の基剤 ポマード 石鹸 クレヨンなどの原料として利用されています
和蝋燭と西洋蝋(パラフィン)との違いは煤(すす)にあります 和蝋燭の煤はサラサラしていて払えば落ちますが 西洋蝋はべたつく性質と金属に対する影響もあるといい 貴重な仏像のある寺院では和蝋燭が使われています また 立木式蝋搾り機による蝋分の抽出で残った蝋かすは燃料としても使えるほか 畑などの肥料としても使用することができます |