御祭神 誉田別命 (応神天皇) 、息長帝比売命 (孝功皇后) 、市杵島姫命、たぎ津姫命、田心姫命、相殿に高おおかみ神 (雨の神)

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2019' JUN 16 Message

長宗我部元親公は、当社を出陣祈願の社と定め、天正14年秋、豊臣秀吉軍の先峰隊として九州征伐に赴く際、社頭に武運長久わ祈りいざ出陣という折り軍旗が鳥居の笠木にかかり墜落す。衆人これを不吉となし、出陣を見合わす形勢となるも、公は殊更に「敵を笠にかけて討つの吉祥前兆である」と祝し出陣す。 * ♪


+ + 若宮八幡宮 + +

■若宮八幡宮 御由緒
御祭神 誉田別命 (応神天皇) 、息長帝比売命 (孝功皇后) 、市杵島姫命、たぎ津姫命、田心姫命、相殿に高おおかみ神 (雨の神)
御創建 文治元年 (平安末期、西暦1185年12月30日
御由緒 鎌倉幕府の基礎を固めた源頼朝公は、祖父、為義公の慰霊ち源家の長久を祈り、京都六条に左女牛若宮を創建し、土佐國吾川郡一円を同社の神領地として寄進した。その神領鎮護の神として、石清水八幡宮の御分霊を御勧請したのが当社である。(以上「吾妻鏡」より) 鎌倉、室町の時代を通じ、特に武家尊崇の神社として栄え、ことに戦国時代の永禄3年 (1560 5月、長宗我部元親公は初陣に臨み、当社の馬場先の松原 (現鎮守の森公園) に陣を張り、一夜戦勝を祈願し、長浜城を攻め落す。以来、当社を戦勝祈願の第一社と定め、社殿を出蜻蛉式建築と改める。これに対し、一宮の土佐神社を凱旋報寶社とし、入蜻蛉式に改めたことから、両社は対をなす土佐独特の神社建築となっている。
慶長5年 (1600) 山内一豊が新しく土佐の国守に封ぜられ、当初、浦戸城に、その後大高坂城に移住されてからも崇敬の念篤、祈願八社の中の一社として、年々の祭典を厳修され幕末を迎えた、
維新後、明治6年 (1873) には郷社に、昭和5年には県社に列せられる。戦後は宗教法人として長浜、御畳瀬、浦戸、瀬戸、横浜、横浜新町の総鎮守として、更に厄除開運の神、安産の神、海上安全の神、戦勝祈願の神、雨の神として広い信仰を集め、今日に至っている。
なお、昭和60年 (1958) 12月には、御鎮座八百年祭が盛大に斎行され、記念事業として社務所の改築や境内の整備が行われた。と御由緒書に書かれています。
■鳥居のいわれ
長宗我部元親公は、当社を出陣祈願の社と定め、天正14年秋、豊臣秀吉軍の先峰隊として九州征伐に赴く際、社頭に武運長久わ祈りいざ出陣という折り軍旗が鳥居の笠木にかかり墜落す。衆人これを不吉となし、出陣を見合わす形勢となるも、公は殊更に「敵を笠にかけて討つの吉祥前兆である」と祝し出陣す。
果たせるかな、豊後戸次川にて島津軍と戦うも惨敗し嫡子信親公以下、七百余人の将兵は異郷に討ち死にす。帰郷後、元親公はこの鳥居を不詳の鳥居とし海上遥かに流しやる。爾来二百八十年間、鳥居なき社として有名なるも、慶応元年、地震の際、鳥居の根石の自然に浮き出しことから衆人これを神意となし、再建す。
時に明治3年3月の事なり、更にその後昭和11年1月に建て替え、昭和55年10月には従来の木の鳥居から鉄筋コンクリートの鳥居に変わり今に至る。と鳥居脇の説明板に書かれています。
■槍通す輪の由来
長宗我元親公は幼い頃から姫若子と呼ばれ、色白の心優しい青年でした。初陣に臨み家臣の泰泉寺豊後から槍の就き方を習い一生懸命稽古に励み見事敵をしち破り、ついに四国全土を制覇しました。家臣達はこうした活躍ぶりをみて、「土佐の出来人」と誉め称えたということです。
この槍を祈願した元親公の銅像が持つ槍の三分の二の長さです。初陣する際当社にまで槍通して下さい、あなたもきっと、不思議な力が湧いてくるでしょう。
輪は社務所にありますので申し出ください。と書かれた説明板があります。


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