松濱軒は、元禄元年(1688)、八代城主三代松井直之が、母の崇芳院尼のために建立した茶庭です。

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2016' MAY 21 Message

八代三代城主松井直之が延宝年中(1670)黄檗宗慈福寺を建立したが、その後、寺を廃し梶畑になっていた所に、元禄元年(1688)の春、生母崇芳院のために御茶屋を建て、松濱軒と称した。通称は「浜のお茶屋」です。訪ねたのは初夏、肥後花菖蒲の花が池水に可憐な花が咲いていました。 * ♪


+ + 国指定 名勝史跡 松濱軒 (しょうひんけん)  + +

■国指定 名勝史跡 松濱軒
松濱軒は、元禄元年(1688)、八代城主三代松井直之が、母の崇芳院尼のために建立した茶庭です。当時は、松波越しに八代海・宇土半島、さらには遥か雲仙を望む雄大な眺望の庭園で、松濱軒の名もこれにゆらいしています。
伸びやかな池には配石がみせれ、西寄りの赤女池周辺に石組みが施された築山を座敷から眺める、奥行きのある風景を形成しています。
また、南寄りには茶庭に繋がる池に八ツ橋が架けられ、絵画の画題を想起させます。池の東よりの中心となる中島の一部には、桂離宮天橋立の景色に似た州浜部が見事に造形されていて、大名庭園として変化に富んだ風情を構成しており、当時の形状を良く今に伝えています。
このように、雄大な海と遥かな山岳の景色を取り込んだ意匠を持つ、江戸時代初期の大名庭園として良好に保存されていて貴重であり、平成14年に国の名勝に指定されました。と展示室前に説明書きされています。



+ + 松濱軒 沿革 + +

■松濱軒 沿革
三代城主松井直之が延宝年中(1670)黄檗宗慈福寺を建立したが、その後、寺を廃し梶畑になっていた所に、元禄元年(1688)の春、生母崇芳院のために御茶屋を建て、松濱軒と称した。通称は「浜のお茶屋」である。
松濱軒は球磨川北岸の終点に当り、加藤清正の植えた松が池中に青く、千鳥の声を聞きながら一服の茶を楽しまれた様子がしのばれる。宮崎雲一臺先生の松濱軒記の中に、阿蘇の白雲、金峰の朝嵐を望むと書かれているが、阿蘇山から宇土半島を経て雲仙迄を背景に此の庭園が造られたものであろう。
現在、松は全滅し、周囲は甍の波が押し寄せて、四周の眺望は、全く見られないが、園内の老いた樹々は、淀んだ池水に昔の面影を映している。
古くからあった赤女ケ池、赤女ケ森がそのまま庭園に取り入れてあり、森の中に伏見の稲荷大明神を勧請した稲荷社をはじめ、歴代が子供達の健やかな成長を祈念した児宮、菅原道真公を奉祀の天神社、愛馬の守護神馬頭観音が鎮座する。
赤女ケ池、赤女ケ森の謂れは古く、群れ泳ぐ「鯛」の古名に因んでの由来といわれ、大変縁起の良い所としても周く知られている。
明治3年に八代城が国有となったため、十代章之が増築して松濱軒に住居を移し現在に至っている。
昭和に入り畏くも天皇、皇后両陛下の行幸啓を仰ぎ、以後も皇室の方々のお成りの栄に浴した。陛下は、此の池の微生物、かたつむり、かきつばた、肥後菖蒲に殊の外御興味を御寄せになった。五月の始めには杜若が咲き、赤女ケ森の頂上迄延びた藤の花と共に池水に姿を写し、六月の始めには、肥後菖蒲が力強い花を開き、肥後の香を漂わせる。
境内には展示場を設け、松井家累代の文化財を公開、訪れる人の足を留めている。昭和51年歴代を奉祀の松井神社境内地に併合、爾来、松井神社苑として今日に至っている。と配布されたパンフレットに記載されています。

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