唐樋札場には、承応3年時点で7枚の高札が掲示されていたことが文献記録に残っています

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2017' AUG 05 Message

唐樋札場には、承応3年 (1654) 時点で7枚の高札が掲示されていたことが文献記録に残っています。高札には「忠孝にはげみ、親子兄弟仲良くするように」や「田畑を一生懸命耕し、荒らさないこと」といった暮らしや仕事に関すること、また、「キリシタン禁令」や「異国船の抜荷禁止」などの禁止事項が記されており、城下での規律正しい生活を促すものでした。 * ♪


+ + 唐樋札場は、明治時代になってその役割を終え、取り壊されました + +

■高札場
高札場は、幕府や藩から御触れを記した高札を掲示する場所です。多くの人に知らせるため、道路の交差する辻や街道沿いの宿場町など、人通りの多いところに設けられました。
唐樋札場には、承応3年 (1654) 時点で7枚の高札が掲示されていたことが文献記録に残っています。高札には「忠孝にはげみ、親子兄弟仲良くするように」や「田畑を一生懸命耕し、荒らさないこと」といった暮らしや仕事に関すること、また、「キリシタン禁令」や「異国船の抜荷禁止」などの禁止事項が記されており、城下での規律正しい生活を促すものでした。この他、磔 (はりつけ) や獄門の刑に相当する罪人を見せしめにするため、この地に晒場 (さらしば) を設け、最長で三日間にわたり群衆の面前でさらすことも行われました。唐樋札場は、明治時代になってその役割を終え、取り壊されました。
唐樋札場跡で平成21年2月から5月にかけて発掘調査を行い、しっかりとつき固められた基礎 (版築土) の上で、高札場建物を支えていた柱穴、地面より一段高く見せるための基壇石化粧石、細長い延石、雨水を受けるための瓦組遺構などが見つかりました。これらは全て地中に保存されています。建物推定規模は東西3.94m、南北7.51m、4本の柱間距離はそれぞれ1.97mです。こうした発掘調査の成果と文献調査、絵図、類推建物などを参考にして、高札場を往時の姿に復元しました。
復元された高札場は、高さ5.67m、木造切妻造、銅板葺 (往時は板葺) となります。と説明板に書かれています。

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