両獄ゆかりの人々の慰霊祭が地元町内会によって11月の第一日曜日に行われているといいます。

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2017' AUG 05 Message

野山獄跡には11烈士碑やその絶命の処を示す石柱が建てられています。岩倉獄には元首相田中義一書による金子重輔牢死の場所を示す石碑および、その死を悲しんで詠んだ吉田松陰先生の詩碑などがあって維新当時の波乱に富んだ長州藩の面影を偲ばせます。
今は、町内会によって11月の第一日曜日に両獄ゆかりの人々の慰霊祭が行われているといいます。 * ♪


+ + 史跡 野山獄 岩倉獄 跡 + +

■史跡 野山獄 岩倉獄 跡
沿革
正保2年(1645)藩主岩倉八部平衛(注:孫兵衛ではないか)が酒に狂って隣家の藩士野山六右衛門を襲い多数の死傷者を出したので両家とも取り潰されて藩の獄となった。野山獄を上牢として士族、岩倉牢を下牢として庶民の牢とした。現在地はその一部である。
野山監跡には11烈士碑やその絶命の処を示す石柱が建てられている。岩倉獄跡には元首相田中義一(萩出身)書による金子重輔牢死の場所を示す石碑および、その死を悲しんで詠んだ吉田松陰先生の詩碑などがあって維新当時の波乱に富んだ長州藩の面影を偲ばせいてる。
今は、町内会によって11月の第一日曜日に両獄ゆかりの人々の慰霊祭が行われている。と萩市今古萩町内会が史跡で配布しているパンフレットに書かれています。
維新当時 野山獄・岩倉獄 ゆかりの主な人びと
吉田松陰
米使節ペリーの渡来により、開港、攘夷と沸き立つ外国事情を知ることが先決であると考え、安政元年(1854)3月海外渡航を企てたが失敗。自首して縛につき江戸の獄に入り、後萩に送られ10月24日の野山獄に投ぜられた。入獄中も毎朝獄窓に立って詩を吟じて重病の同志金子重輔を慰めたり、同囚とともに俳諧の連座を開いて荒涼とした獄中に和風を吹き込み、或いは同囚のために孟子を講じ、そのため獄風が漸次改善されたといわれる。翌2年12月15日一旦出獄杉家に錮され、後松下村塾を起こして数多くの人材を育てた。安政5年に入ると松陰の言動が再び政治批判に向けられたので、藩政府は12月26日再入獄させ、翌6年5月25日幕府の命により江戸に送る。同年10月27日江戸伝馬町獄舎に於いて処刑される。
金子重輔
吉田松陰に従行して渡航に失敗、ともに萩に送られ岩倉獄に投ぜられた。江戸の獄にある頃から痢疾にかかり、この獄に入りて病勢日に加わり、安政2年正月11日に遂に牢死した。享年25才。詩碑の詩は、その死を悲しんで吉田松陰の作ったもので、渋木生は金子重輔のことである。
十一烈士
幕末当時、長州藩は、保守恭順わ唱えるいよゆる俗論派と尊王攘夷を主張する正義派とは分かれ、互いに藩政の主導権を争った。その結果は同胞相せめぎ多数の犠牲者を出したが、十一烈士に何れも正義派の中枢的存在であった俗論派のためにここで斬られた人びとがある。(括弧内数字は刑死当時年齢)
宍戸左馬之助(61)、佐久間左衛門(32)、竹内正兵衛(46)、中村九郎(37)いずれも元治元年(1864)7月19日の京都禁門の変には参謀として活躍した。
以 参謀は第一次征長に際し、朝廷に対する恭願謝罪の証として元治元年10月24日投獄され11月12日ここの刑場で悲壮の死を遂げた。
楢崎弥八郎(28)、大和国之助(30)、山田亦介(55)、前田孫右衛門(47)、毛利登人(44)、渡辺内蔵太(29)、松島剛蔵(40)、正義派藩政の中心人物として手腕をふるった。
高杉晋作が中心となって打ち上げた俗論派打倒ののろしで、正義派諸隊の勢力が次第に増してきたので、これを恐れた俗論派政府は以上の7士を元治元年12月18日に投獄、翌19日にここで処刑した。
高杉晋作
脱藩の罪により元治元年3月29日入獄、同年6月21日、藩政府(正義派)は表向き病気を理由にして出獄させ軍事を督せしめた。同年10月俗論派が正義派を圧するに及んで一時脱走していたが、同年12月15日夜半、下関で力士隊、遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて巧山寺で挙兵。後に奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年(1865)3月俗論派を打倒。長州再征の役起こるや奇策をめぐらして縦横に活躍したが、その砲煙のおさまる頃より病に冒され慶応3年(1867)4月14日下関で逝く。行年29才。
波多野金吾
同志村田次郎三郎、小野村文助、滝弥太郎とともに前出7烈士処刑の日投獄されたが、何れも慶応元年2月14日には俗論派の失権に伴い放免された。後の明治政府参議広沢真臣である。
入江杉蔵、野村和作
実の兄弟である。何れも松陰の伏見要駕に同調し種々画策した廉で、兄杉蔵は安政6年2月28日、弟和作は同年3月22日ともに岩倉獄に投ぜられた。入江は京都禁門の変で戦死したが、野村は後の子爵野村靖である。伏見要駕は、松陰が獄中から門下生たちに向けて指令。藩主を伏見で待ち伏せし、洛内に誘引して朝廷に攘夷を誓わせようというもの。
冨永有隣
学者であるが性偏屈で親族一同より借牢の形で嘉永6年6月より約4箇月在獄、牢中で松陰に知られその疾走によって免獄となり、松下村塾に賓師として迎えられる。国木田独歩の小説「岡先生」の主人公といわれる。
保守俗論派と呼ばれる人びと
永い間悪玉と決めつけられた人びとであるが、これも激しく揺れ動く時代の悲しい犠牲者であり、相ともその霊を慰めたい。
坪井九右衛門 俗論派を教唆し強訴させた罪で文久3年(1863)9月9日投獄、10月28日斬に処せられた。行年64才。
椋梨藤太 俗論派政府の巨頭。後藩論が正義派に移るに及び同志11人とともに慶応元年(1865)2月脱出を企てたが捕えられ同年5月晦ここで斬られた。行年61才。
なお、椋梨と同志の人びとが慶応元年5月晦に大量処罰されたが、その中には当獄で死を賜うたもの(中川宇右衛門)、ここに護送の途次自殺したもの(小倉源右衛門、岡本吉之進)、後に投獄されたもの(山県与一兵衛、進藤吉兵衛)などこの獄にゆかりの人は数多い。
また、俗論派政府に批判的であった中立派の鎮靜会議員3名を明木権現堂に要殺した中井栄太郎ほか6名もこの獄で死を賜もうた。
野山獄碑文の内容
野山獄中で渋木(金子重輔の別名)君の訃報(岩倉獄にて病死)を聞く。
江戸伝馬町の獄舎から萩へ護送される途中、明木(萩市旭地域明木地区)の駅で君と別れたが、その折りには何かとあわただしく、君と言葉を交わすこともできなかった。
その後、君は岩倉獄、私は野山獄にそれぞれつながれ、お互いの消息も判らない。
私達が狭い獄舎に押し込められているのは、まるで大海の魚が小さい池に閉じ込められて苦しんでいるようなものだ。
しかし、住んでいた林を失った籠の鳥が群飛の時を忘れないように、私達も太志を忘れることは決してない。
時は流れ、一日は過ぎゆくが、お互いに会うこともできない。
だが、夢の中では心は通じあっていたので、君の訃報を聞いたときは、とても信じられなかった。
生きてる間に別離があるとさえ思わなかったのに、死別とは本当に考えもしなかつたことだ。
友人吉田寅二郎炬方
史跡 野山獄・岩倉獄跡で配布されているパンフレットより

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