SANUKI KAGAWA TAMEIKE INOCHI NO MIZU |
■ 讃岐のため池
香川県には約1万4千箇所のため池があります ため池の数では全国第3位 県の面積あたりの数では全国1位 地図を見ると 点在するため池の多さに驚かされます
讃岐(香川県)のため池は 天候と地形にその理由にあります 讃岐の雨量は全国平均の3分の2 香川県と徳島県の県境の山地でも標高は約1000メートル そして 瀬戸内海までの流域距離は約33キロメートル このように水が少ない地域で稲作を行なうため 先人は 地域が一丸となって ため池の造営に心魂をかたむけたといいます ■新池脇 仏生山街道 説明板
写真のため池は高松市新町の新池 丘陵のため池で 流域の稲作にとって命の水です また ため池は 動植物の貴重な宝庫であり 繁殖の地でもあります
飛行機で東から高松空港に着陸するとき 眼下には大小さまざまた大きさのため池が点在している様子をみることができます 河川の少ない香川県は ため池が水田などの農業にかかせない水資源になっています
■ 満濃池(まんのういけ)
満濃池は香川県満濃町にある農業用のため池です 堤高32.34m 貯水量1,540万m3 有効水深21.14m 灌漑面積約4,600ヘクタール 満水面周囲約20km 総工費543,327千円 水面積138.5ヘクタールです
満濃池の湖畔に設置された略史は 満濃池を次のように説明しています
昔この地方は「晴天5日を経れば水湿の潤い無く 霖雨2日に及べば洪水の難有り」と記載されているように水利が乏しいところであった 農民は灌漑用ため池を渇望・歎願しつづけその実現されたのが満濃池である 阿讃の四季を写す水鏡は風光明媚 貯水量 伝説など名実ともに日本一と称されている
この池の創築は大宝年中(701−704)に国守 道守朝臣が築いたとされている その池名の由来は大同4年(809)頃まで当地を神野郷(かんのごう)と呼んでいたのを眞野郷(まのごう)と改めたので「眞野」あるいは「十千」(といち)の池と呼ばれたといわれている
満濃池は嵩上げ(堤上げ) 樋替え 復旧の歴史である 有名な工事は弘仁9年(818)の洪水 翌年の大旱魃により農民の困窮は極限に達した 国守の奏上に弘仁11年(820)路真人浜継が下国し復旧に着手した しかし九十九谷の雨水との戦いは工事の成功が危ぶました そこで浜継は国守清原夏野と計り 池は大きく民は少なく修築の困難を再奏上し空海の差遣を懇願した ■堤上部からの風景
嵯峨天皇の弘仁12年(821)5月27日勅許により名僧弘法大師(空海48歳)が築池別当として 沙弥 童子を従えて 豪族矢原正久を止錫した(このとき唐から持ち帰った花梨を植樹したと伝えられている)空海は池畔の護摩壇上で秘法を修し加護を祈りつつ弓状堤防などの指図を説法をされた 人びと空海の徳を慕い嬉々として集まり僅か3か月でみごと難工事を仕上げた ■放水口から見上げた堤上部
三十余年を経て 仁寿元年(851)の秋 堤防が決潰し 国守 弘宗王により数千の夫役を発し 堤高を八丈(23.0m)とした その後何回かの修覆をしながら元暦元年(1184)の修築を期に戦国時代となり以後450余年修覆する人もなく 池の中に池内村ができていた
寛永2年(1625)に藩主生駒正俊が家臣西島八兵衛之十尤に復旧を命じ 豪族矢原正直と計り昔日の面影を見るようになった
満濃池の池名は江戸中期より遣われるようになる ■池畔の案内板
以来 樋替工事20回(御用普請8 国普請8 自普請4)安政元年(1854)の大地震に堤防が決壊し 明示2年(1869)高松藩執政松崎渋右衛門の発議により揺替えごとの労役軽減や底樋の恒久化のため 豪農長谷川佐太郎などの協力により寒川郡富田村庄屋軒原庄蔵に命じ石穴30間5尺3寸(56.2m)を穿鑿した(国の登録文化財)翌年6月堤長45間半(88.7m)堤高13間(23.6m)の完成を見た 堅樋 櫓は大正3年(1914)に配水塔に改築された
その後の嵩上げは明治38年に0.87m 昭和2年に1.5m 第三次は県営満濃用水改良事業として昭和15年より開始したが戦争のため休止の憂目を見た 水没する五毛地区13戸の立退きなどの協力により昭和34年(1959)3月に6.0m 大望の竣工となり現況のとおりとなった と説明されています
満濃池は香川県内最大のため池 毎年6月13日ごろにゆる抜きが行なわれます それまで閉じていた水門を開け ため池の水を川に流す行事です 上流の田んぼから順番に田植えが行なわれる様子は 香川の梅雨の風物詩です
■ 公渕池(きんぶちいけ)
公渕池は高松市にある農業用のため池です 堤高27.1m 堤長450m 満水面積24ヘクタール 貯水量1785m3です
公渕池の湖畔に設置された説明板は 公渕池を次のように説明しています
元暦2年(1185)屋島の浦で源氏と平家が激しく戦いました
平家の公達は 義経の奇襲攻撃にあい 矢傷を受けながらもある者は海へ 又ある者は山へと落ち延びて行きました 天も地もこうこうとした月の光に包まれ 清浄そのものの世界でした 公達につき従う者もやがて一人減り 二人減り そのうちいなくなっていることに気づきます
ふと人の気配を感じて振り返ると 渕のあたりからお香のかおりが漂います かおりがたちこめた渕をのぞくと 直衣姿の友人や長い黒髪の姫御前が大勢集まり「笛とお琴を合わせましょう」 「あとは酒盛りだよ」 「月見の宴だからお歌も詠みましょう」 などとはやしたて 公達を誘っています
公達は 自分の帰りを待っていてくれるものと思い 渕の中に身ほ躍らせました 一瞬月の光がくだけ散り 再びあたり一面が冴えわたりました
こんなことがあってから 里の人々はこの渕を公渕(きんぶち)と呼ぶようになりました その後渕のほとりに堤を築き 田を潤す池になってから 公渕池と名づけなりました と説明しています
■ 渇水の危機を軽減した早明浦ダムは 四国のいのち 「早明浦ダム」 でご覧ください
香川用水の情報は ■香川用水 をご覧ください
旧大川村役場の情報は ■旧大川村役場 をご覧ください
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香川用水のあらましの説明板には香川用水は高知県・徳島県の友情の水であると説明されています 香川県は山から海までの距離が短く雨水はあまり保水されずに川に流れ下ってしまう地形です 本当に香川用水は友情の水であると感じます いのちの水 大切にしましょう | ||
香川用水は 高知県・徳島県からの友情の水です |
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