■四国霊場 第85番札所 八栗寺 四国霊場第85番の札所八栗寺は、淳和天皇の天長6年 (西暦829) の創建で弘法大師の開基といわれ、本尊は初めて千手観音さまで、寺は千手院と呼ばれたが、尊像が小躰であったので、萬治寛文の頃に藩主御寄附の像高四尺の古仏で大師の御作と伝える聖観音菩薩を本尊とし院号を改めて観自在院と称するようになった。 寺伝によれば、大師がこの山に登って御修行のみぎり五振りの利剣が虚空より降りこれを巌岫を埋めて山野鎮護としたので五剣山または剣五山と名づけ、山頂に登って四方を展望すれば遠近八箇国の景観が寸眸の裡に集るので八国寺とも呼ばれたが、大師が入唐求法の前効を試みるために植え置かれた焼栗八枚が帰朝後に悉く生長繁茂したという因縁で八栗寺とよばれるようになったのだという。 この寺は天正年間長宗我部元親の軍勢が乱入の時兵火に罹って焼失したが、文禄年中に無辺上人が復興を企て、寛永19年に藩主松平頼重候が現在の本堂を再建、延宝5年には木食以空上人が東福門院御可下賜の歓喜天を当山に勧請、更に宝永6年に至って松平頼豊候が堂宇の造営と本坊の移転改築に力を尽くし、歴代の住侶また伽藍精舎の護持に務め、かくて現に山門、本堂、大師堂、聖天堂、通夜堂、鐘楼、多宝塔、子裡、方丈、客殿などが翠巒奇峯にかこまれた仙境に輪煥の美をかざり、四季を通じて参詣者が常に絶えない。 と説明板に書かれています。 ■五剣山八栗寺起縁 四国霊場85番札所であり、歓喜天霊場として知られる八栗寺は、弘法大師の開基で、天長6年 (829年) 創建。宗派は真言宗大覚寺派。 寺伝によると、大師がこの山に登り求聞持法 (ぐもんじほう) を修めた時、五つの剣が天から降り、その時現れた山の鎮守蔵王権現 (ざおうごんげん) から「この山は仏教相応の霊地なり」とのご神託を賜った。 大師は五剣の中嶽に埋め山の鎮護とし、大日如来の像を刻んたことにちなみ「五剣山」と名付く。大日如来の像は現存する。 山頂に登って四方を展望すれば八カ国が望めたので「八国寺」と言われたが、大師が唐の国に渡る前、入唐求法 (にっとうぐほう) の成否を占うため植えておいた焼き栗八つが、帰朝後全て生長繁茂しているのを見て「八栗寺」と改めた。 天正年間、長宗我部元親の八栗城攻略の時焼失したが、寛永19年 (1642) 高松藩初代藩主松平頼重公が本堂を再建し、大師作の聖観自在菩薩を本堂に安置した。 しかし現在の本堂と二天門は宝永6年 (1709) 三代藩主松平頼豊公再建と棟札にある。 かつて、五剣山は文字通りの峰があったが、江戸時代の宝永4年 (1707) の大地震により、東の一峰が中腹から崩壊し、現在の姿になったといわれる。 と八栗ケーブルで配布されているパンフレットに記載されています。 |