日本の海を世界に繋げた万次郎。日米の懸け橋となり、国際化や文明開化に尽力する

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2017' MAY 04 Message

時は幕末前の1827年、1人の男の子がこの地、中浜で産声をあげた。ジョン万次郎こと、後の中浜万次郎、その人である。 波乱に満ちた人生は、初出魚した14歳のとき、嵐に遭って太平洋に浮かぶ「鳥島」に流れ着いたことから始まる。無人島での生活は143日続き、偶然通りかかった捕鯨船「ジョン・ハウランド号」によった救出された。 * ♪


+ + ジョン万次郎 (中浜万次郎) 生家 復元 + +

■ジョン万次郎 (中浜万次郎)
時は幕末前の1827年、1人の男の子がこの地、中浜で産声をあげた。ジョン万次郎こと、後の中浜万次郎、その人である。
波乱に満ちた人生は、初出魚した14歳のとき、嵐に遭って太平洋に浮かぶ「鳥島」に流れ着いたことから始まる。無人島での生活は143日続き、偶然通りかかった捕鯨船「ジョン・ハウランド号」によった救出された。同号の船長ウイリアム・H・ホイットフィールドとの出会いは大きな転機になった。命の恩人となったばかりでなく、万次郎を米国本土に連れ帰り学校教育を授けたのだ。斯くして万次郎は米国における日本人留学生第1号になったのである。
英語はもとより航海術、測量術、捕鯨術など高度な技術を習得、ホイットフィールド船長とともに世界の海を巡り、さらなる見聞を広めた。ただ万次郎には気掛かりがあった。日本の行く末を案じると共に故郷に残してきた母を思う気持ちである。遭難から10年、24歳になった万次郎は帰国を決意する。
それは黒船騒動の2年前のことだった。ペリー来航を事前に把握していた徳川幕府は、世界情勢に明るい万次郎を幕臣に取り立てた。万次郎が目にした〇来の姿は「漂流総〇」としてまとめられ、坂本龍馬や勝海舟らに多大な思想的影響を与えている。また、日米修好通商条約調印のために訪米使節団が乗船した咸臨丸では事実上の船長として重責を果たし、明治期には開成学校 (現東京大学) の教授に就いて後進の育成にも力を注いだ。
日本の海を世界に繋げた万次郎。日米の懸け橋となり、国際化や文明開化に尽力して1898年、71歳の生涯を閉じた。困難や逆境を乗り越える不屈の精神は「ジョン万次郎スピリッツ」として、今を生きる我々にも引き継がれている。と生家復元記念碑に刻まれています。

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