日本の海を世界に繋げた万次郎。日米の懸け橋となり、国際化や文明開化に尽力する


ジョン万次郎 (中浜万次郎) 生家 復元


■ジョン万次郎 (中浜万次郎) 帰郷150周年記念碑 説明文
ウイリアム。ホイットフィールド船長殿
尊敬するお方よ。こうして一筆したためる機会を得ようとは、この上ない幸せでございます。
私の方は元気で暮らしております。あなた様も同じく元気であることと存知上げます。あなた様には、お互い元気で命ある内に、是非もう一度お会いしたいと願っております。この願いが叶ったら、私たちの喜びは如何ほどのものでしようか。くれぐれも、奥様とアメリア嬢にもよろしくお伝えください。お二人にも是非お目にかかりたいものです。
船長、息子さんたちに捕鯨などさせず、代わりに日本にお寄せなってはいかがですか。その折には、私が面倒を見てさしあげますから、そうなさる際には、私がいろいろ準備にあたりますので、事前にお知らせくださいますよう。
では、私がいかにして故郷にたどりついたか、お話ししましょう。まずは、金鉱に向かったのはあなた様もご承知の通りです。そこには四カ月滞在。経費を除く一日の稼ぎは平均八ドル。ここから故郷に帰り、なつかしい母親に会おうと決意致します。そこでねあるアメリカ商船に便を得て、サンドイッチ島に到着る
私たちの友デーモン牧師に会い、牧師の世話によって捕鯨用ボートを買い求めることができ、これを中国 (シナ) の上海行きの商船に積み込みました。
時は一月、かの地は非常に寒かったのです。琉球王国の南の地に上陸した時には、吹雪でシケていました。商船の船長は、私にそのまま船に留まり、一緒に中国まで行くよう強く勧められましたが、私は、伝蔵、五右衛門が乗り移り、ボートは午後4時に本船から離れました。十時間もの力漕の末、島かげに到着、その朝まで停泊。翌朝、琉球の地に上陸してはみたものの、言葉が全然通じません。私はすっかり日本語を忘れてしまっていたのです。私はこの地で、琉球王国の保護をうけながら、六ケ月もの間、日本の船がやって来るのを待ちました。
七月に入り、船の便を得て九州の長崎港へ。在留許可取得のため、ここで待つこと三十カ月、諸手続きが整い、ようやく故郷の土を踏むことか許されたですが、母や親戚たちの喜びようは大変なものでした。母とは三日三晩過ごしただけで、将軍が私を召喚したため、江戸へ向かわなければなりませんのでした。私は幕府の任官となり、現在は幕府の軍艦に勤務しております。
本艦は日本の天皇 (天子) によって、アメリカの大統領に敬意を表すために派遣されたものです。カリフォルニア州サンフランシスコに赴き、今は日本への帰航の途にあります。サンドイッチ島へは石炭と食料調達のために立ち寄りました。本当はサンフランシスコから手紙を出したかったのですが、日本人の目がじろじろとうるさくて、ままなりませんがでした。そういう訳で、サンフランシスコから島への船上でしたためるはめになったので、間違いだらけの手紙をお許しください。日本の江戸に着いた際には、もう少しまともなお手紙をさしあげるつもりです。
あなた様が日本に来られることを心より望んでおります。親愛なる友であるあなた様を、なんとしても我が家にお迎えしたいのです。今では日本もすべての国に対して港を開いております。私たちの友、サムエル・C・デーモン牧師にもお目にかかりました。このときのお互いの喜びは、とても書き尽くすことはできません。帰国しましたら、もっと詳しい様子をお知らせ致します。
私の着物を一揃い、あなた様にお送りします。新品のものではありません。ただ私を忘れずにいてほしいまです。
あなた様の友、ジョン万次郎 1860年5月25日 と説明板に書かれています。



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