早稲田大学総長、内閣総理大臣を歴任


大隈重信候像 佐賀市


■大隈重信候像
碑文
大隈重信候は、幼名は八太郎という。いかにも気宇壮大、その生涯も名前のように闊達である。
幕末、1838年に、佐賀藩士信保の長男として、城下町、会所小路に生まれた。柔弱な幼時だったが、母三井子は時に優しく時に厳しかった。この母は重信の人となりに大きく響いている。
藩校弘道館に学ぶのは6歳。学ぶことの偉大さを知る。15歳の1853年は、ペリー来航の年。17歳の時、蘭学寮に入る。さらに、長崎に英学校致遠舘が設立されると、副島種臣とともに学生たちの監督として、フルベッキに学ぶ。
明治維新の1868年、新政府が生まれると直ちに外国事例判事となり、外交の衝に当たる。1870年、四参議の1人となり、内外国債の整理、金本位制を導入し、十進法の「円」に改めるなど通貨制度を一新、東京神戸間の鉄道設立に着手する。
1873年、征韓論が決裂した時、重信は同じ佐賀藩の副島らは行動を共にせず閣内に留まった。学んで内包したものが、彼らと質を異にしていたといえる。
1881年、国会開設の意見書を提出して薩長勢力と対立、ついに参議を解任された。「明治14年の政変」である。翌年、立憲改進党を結成して党首となり、英国を手本に言論の政治を目指す。
その秋、早稲田大学の前身・東京専門学校を設立、新しい国、時代に備える人材の育生にまり出した。時に44歳
1888年、黒田内閣の外務大臣として入閣、不平等条約改正に全力を傾けるが、不満を持つ暴徒に爆弾を投じられ、右肺を失う。
しかもなお不屈である。1895年進歩党を作り、一大野党勢力を結集した。翌年、松方内閣の外務大臣として入閣、27・8年戦後処理に当る。
第一次大隈内閣の組閣は1898年である。「隈板内閣」と呼ばれ寿命は短かったが、日本憲政史上初の政党内閣として歴史に刻んだ。佐賀が生んだ総理大臣である。
1902年、東京専門学校を早稲田大学に改め、1907年総長に就任する。
時代は再び重信を求める。1914年、76歳で再び内閣を組閣、二年の首相在任中は第一次世界大戦開戦という難局にも遭遇する。
1922年1月、84歳をもって世を去る。17日東京で行われた国民葬には、150万人が参列、英明な魂を悼んだ。
時代は人が作る。人は学んで作られる。重信は絶えず人に呼びかけ、学んだことを諭した。「あるんであるんである」という有名な演説の口調がそれを果敢にする。「民衆政治家」重信は、今も「民衆」に朗々と呼びかける、「たえず学び、たえず行え」と。
1988年(昭和63年)4月 大隈重信銅像建設期成会と書かれています。


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