岩崎彌太郎は、「吾志を得ずしんぱ再びこの山に登らず」と誓いを書きました。

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2017' JUL 15 Message

彌太郎は、慶応3年 (1867) 東洋の甥である後藤象二郎に登用され、土佐藩の商社である開成館長崎出張所「土佐商会」に勤めます。土佐商会は、土佐の物産である樟脳や和紙、鰹節などを売り、その代金で軍艦や武器などを買う目的で作られました。
彌太郎は苦労しますが、手腕を発揮して、上士まで昇格します。
その頃龍馬は、海援隊で活躍していました。彌太郎は、その海援隊士の給料の支払いをはじめ、龍馬が要求した多額の資金を用立てにも応じるなど、金銭面で支えました。 * ♪


+ + 三菱義ループの礎 岩崎彌太郎 生家 安芸市 + +

■三菱義ループの礎 岩崎彌太郎
彌太郎は天保5年、父・彌次郎、母・美和の長男として井ノ口村 (現在の安芸市井ノ口) に生まれ、幕末から続く諸外国の汽船会社などと激しい戦いを制し、「東洋の海上王」と異名をとるようになり、世界にな名だたる現在の三菱グループの礎を築いた幕末屈指の経済人です。
■幼い頃から発揮された天才
幼い頃から才のあった彌太郎は、12歳で13代土佐藩主山内豊照に漢詩を献じた褒美をもらう程でした。
強い意志を胸に
安政元年 (1854) 、江戸遊学前、妙見山の星神社に参拝した彌太郎は、「吾志を得ずしんぱ再びこの山に登らず」と誓いを書きました。大きな志と強い意志を胸に、江戸で著名な学者の安積艮斎むに入門しました。
しかし翌年、酒席の喧嘩で父親が大ケガをしたのをきっかけに帰省。激しい訴えが奉行所の怒りを買い、彌太郎は獄中の人になります。安芸郡を追放された彌太郎は土佐藩の要職を務めていた吉田東洋と出逢い、それを機に新たな飛躍の道を拓いたのでした。
■彌太郎と龍馬
彌太郎は、慶応3年 (1867) 東洋の甥である後藤象二郎に登用され、土佐藩の商社である開成館長崎出張所「土佐商会」に勤めます。土佐商会は、土佐の物産である樟脳や和紙、鰹節などを売り、その代金で軍艦や武器などを買う目的で作られました。彌太郎は苦労しますが、手腕を発揮して、上士まで昇格します。
その頃龍馬は、海援隊で活躍していました。彌太郎は、その海援隊士の給料の支払いをはじめ、龍馬が要求した多額の資金を用立てにも応じるなど、金銭面で支えました。
■日本初のボーナス
明治9年 (1876) イギリスの世界最大の海運会社P・Оが、大阪・東京航路まで進出した際、三菱は大胆なリストラを実施し、社員は社長・彌太郎自身の50%の減給宣言にならい給与の3分の1を返上しました。
必死の防戦の末、P・О社は撤退し、このビジネス戦争の勝利は社員の奮闘の賜物であるとして、彌太郎は年末のボーナスを支給することにしました。

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