阿蘇の宮を崇敬し、西國安鎮祈願の遥拝殿を立てたのが始まりと伝えられています。


六殿宮 社殿


■六殿宮 社殿
説明板による楼門の由来
熊本市南区富合町に鎮座する雁回山の本宮は、御白河天皇の御代、鎭西八郎為朝木原城に居城の折、阿蘇の宮を崇敬し、西國安鎮祈願の遥拝殿を立てたのが始まりと伝えられ、その後、治承2年(約800年前)高倉天皇の勅願により時の内大臣平重盛公に鎭西地方の鎮護の宮として本宮創建の御綸旨を賜り、肥後國菊池隆直公を社殿造営の任にあたらせ給い、直ちに木原山麓の聖地に阿蘇大明神を始め5柱の神を祀る御社殿を建立し、社号を六殿大明神と号して、神領750町を寄進、更に神護寺として円福寺(不動明王ほか5体安置)を建立、社入社僧20人をつかわしてその任に当たらせられたのが、その起源であります。 建部年中、肥後守菊地武重公は社殿を改築して、八幡大菩薩他二神を合祀せられ、延元の頃、征西大将軍宮は勅使として参向され参拝を仰いだと云う記録が残っている。 後奈良天皇天文年中、宇土城主名和伯蓍守顕忠公は宝殿の建立をはじめ、飛騨の名匠甚五左衛門に命じて楼門一宇を奉納されました。 しかしながら天正17年、時の宇土城城主小西行長は、切支丹を信奉し領内の社寺を焼討したのでありますが、幸いに本宮が勅願社の故を以ってその神域を懼れ火難はまぬかれたものの、寺領や宝物は掠奪され、社内乱妨狼藉を極め、社僧受持の円福寺は焼失したのであります。慶長5年、熊本城主加藤清正公は小西領宇土城攻めのため、本宮に於て、戦捷祈願を寄進し社殿を改修されました。 細川歴代藩主の尊崇も厚く、今も尚、奉納の絵馬や灯籠が現存し又、一般庶民の信仰は肥後國内はもとより、鎭西(九州)一円に亘り、除災招福、心願成就を祈念する人々の、心のよりどころとして、神威益々広大に崇敬を集め今日に至っております。と配布のしおりに書かれています。


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