山田堰と共に、父養寺井、上井、中井、船入川などの用水路もつくられました


山田堰と野中兼山 高知県香美市


■山田堰と野中兼山 高知県香美市
土佐藩執政だった野中兼山は、藩の石高を上げるため、水田をつくろうと考えました。そして、その水田に水を引くため、寛文4年 (1664) に物部川に山田堰を完成させました。
堤の工事は26年もの長い年月がかかり、当時は全て人力で行わなければならず、たくさんの人が自分の仕事を置いて、工事にかりだされました。堤は、松の木で四角の枠を組み、その中に石を詰めた「四ツ枠 (よつわく) 」を並べる工法が用いられました。堰の形も、水の勢いを抑える「湾曲斜め堰」に工夫されていました。
完成した堰は、長さ327m、幅11m、高さ1.5mありました。
山田堰と共に、父養寺井、上井、中井、船入川などの用水路もつくられました。昭和48年度に物部川合同堰が完成するまで、農地へ配水する役目を果たしていました。
兼山は、他にも仁淀川の八田堰などを作り、高知県の米作りに多大な貢献を果たしました。しかし、農民に対する厳しい取締りや強引な政治のやり方ら、不満を持った深尾出羽昌ら3家老から建白書が出され、失脚。寛文3年 (1663) 香美市土佐山田町野中において、山田堰の完成を見ることなく他界しました。
と説明板に書かれています。



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