昭和59 (1984) 年までは通勤客を運ぶ旅客鉄道としても活躍


三池炭鉱専用鉄道敷跡


■三池炭鉱近代化産業遺産群 三池炭鉱専用鉄道敷跡
三池宮原抗脇の鉱山鉄道の路盤跡。鉱山閉山跡も戦前に製造された電気機関車が走っていたとい...。
炭鉱各坑口と積出港等を結ぶ炭鉱専用鉄道。明治38年に各坑口と積出港までの本線が全線開通、技術発展に伴い馬車鉄道から蒸気機関車に、電気鉄道へと変遷しました。できれば 観光列車で鉄路の復活を

説明板記載内容
国指定重要文化財 (建造物)
三井石炭鉱業株式会社三井炭鉱宮野抗施設
国指定史跡
三井三池炭鉱跡 宮野抗跡 万田抗跡 専用鉄道敷跡
三池炭鉱は、明治6 (1873) 年に官営となり、大浦坑・七浦坑・宮浦坑・勝立坑等を主力坑として施設の近代化が進められた。明治22年には三井組に払い下げられ、團琢磨を指導者として経営の拡大が図られた。明治後期に宮原坑、万田坑、大正期には四山坑が開坑され、わん゛国最大の炭鉱が発展した。
宮原坑は、明治31 (1898) 年に第一立坑が、明治34 (1901) 年に第二立坑が完成した。第一立坑は揚炭・入気・排水が主であり、第二立坑は人員昇降を主とし、排気・排水・楊炭を兼ねた。三池炭鉱の最大の課題は排水であったが、両立坑とも当時世界最大のデビーポンプ2台を備え、排水難を解消、深部採炭への展開を可能とした。以降、宮原坑は主力坑となり、明治・大正期を通じて年間40〜50万トンの出炭を維持した。当時宮原坑は、三井集治監に収容されていた囚人が採炭に従事しており、彼らから「修羅坑」と呼ばれ恐れられた。しかし、昭和6 (1931) 年5月1日、閉坑した。
現在、第一立坑はすでに消滅しているが、第二立坑は鋼鉄製櫓、捲上機室などが保存され、その周囲約14600m2が史跡となっている。捲上機室はイギリス積みレンガ造の切妻平屋で、屋根は現状で波形スレート葺き、内部には捲上機やウィンチ、大型のモーターなど設置されている。
平成25年3月 大牟田市教育委員会 と書かれた説明板があります。

旧三池炭鉱専用鉄道敷説明板
明治11 (1878) 年に、当時石炭搬出港だった大牟田河口の大牟田港と大浦坑の間に馬車鉄道が敷設されました。その後、明治24 (1891) 年に本格的に蒸気機関車が導入され、明治30 (1897) 年には希有集鉄道線 (現在のJR鹿児島本線) と直結、明治33 (1900) 年に七浦坑〜宮原坑〜万田坑間が開通しました。さらに、明治38 (1905) 年には築港工事が開始された三池港までの全線が完成し、最盛期には総延長150キロにも及びました。(閉山時総延長45.9キロ) 。
昭和59 (1984) 年までは通勤客を運ぶ旅客鉄道としても活躍し、市民に広く親しまれ、現在も三井化学専用鉄道として一部が稼動しています。と書かれた説明板があります。



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