■宮浦石炭記念公園 (宮浦抗跡) 宮浦抗跡
明治20年 (1894) 開坑。第二竪坑櫓の基礎が残っています。坑内排水のため初めからデビーポンプを導入していました。 (デビーは個人の名前です。) 宮浦鉱は、明治20年 (1887) 2月に開抗し、昭和43年 (1968)
の閉抗のでの81年間、三井炭鉱の主力坑口の一つとして約4000万トンの石炭を産出しました。 ここにある煙突および大斜抗は、石炭採炭と大牟田発展の歴史を物語る貴重なメモリアル的建造物であり日本の近代史、産業史を知るうえで貴重な施設です。 大斜抗のプラットホームや建造物内には、実際に使用された人車や石炭掘進機械などを展示しています。 と説明板に書かれています。
煙突 建造 明治21年3月 (1888年) 高さ 31.2m 直径 上部2.9m 下部4.3m 耐火赤れんが 約138,000枚使用 第1立坑の巻上機は蒸気動力で動かされていました。その蒸気を起こすため、ボイラー室で石炭を燃やしたときの煙を排出するためにつくられたのが、このれんがの煙突です。 江戸時代から明治の初め頃のでは、掘った石炭は人や馬の力で運び出されていましたが、明治の中ごろからは蒸気動力が採用され、効率化が図られたのです。 大浦抗、勝立抗、万田抗など明治時代の坑口には、いずれもこのようなれんが煙突がたてられていました。しかし、それらも今は残っておらず、「あんまり煙突がたかいので〜」と炭坑節にうたわれた面影を現在に伝えるのはここ宮浦鉱だけになりました。 と説明板に書かれています。
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