■轟水源 (宇土市宮庄町 みやのしょうまち) 宇土半島の大岳系山塊や白山などに浸透した地下水が湧出しており、古くから飽田郡河内村鑪水 (現熊本市西区) や合志郡御領村轟 (現合志市) と並んで「肥後三轟水」と呼ばれていました。湧水量一日約六千トン (毎秒約四千二百リットル) 水温約18度。清冽甘味で、特にお茶に適しています。毎年7月20日には、轟泉簡易水道組合により水神祭が行われます。 ■轟泉水道の歴史 寛文三 (1663) 年、宇土細川藩 (三万石) 初代藩主細川行幸公が、轟水源から約三キロ離れた宇土の町まで上水道を敷設して以来、今なお使用されている日本最古の現役上水道です。我が国の上水道 (明治時代以前) としては、18番目に造られたものでした。 総延長は、約4.8キロ (本管約3.5キロ、支管約1.3キロ) で、当初は瓦質製樋管を使用していました。しかし、水漏れや濁りがひどくなったことから、敷設かに約100年後の明和八 (1771) 年、宇土藩五代藩主細川興文公が、宇土半島網津に産する馬門石 (阿蘇溶結凝灰岩) 製の樋管に改修し、現在に至っています。 ■轟泉水道の仕組み 轟水源 (標高約8メートル) から末端の船場附近 (標高約4メートル) までの高低差は、4メートルほどしかありませんが、様々な工夫が施されて送水を可能にしています。 地盤の高い所では約2メートルも掘り下げて樋管を据え、低い所では土手状施設である「塘」を造り、その上に樋管を通しています。また、所々に水圧調整や流れてきた砂などを溜める「枡」を配しています、このようにして送られた水は、本管から支管へ、さらに井戸に流れ込み、さの水を人々が汲み上げて使っていました。 なお、水漏れなぢの修理には、赤土や貝灰、塩、松枝や松葉の煮汁などで作られめ「ガンゼキ」が現在でも使われています。水の中でも固まる優れた性質があります。 出典 轟水源脇の説明板 |