鳥居と社の間に林立する巨大な杉の夫婦杉、詳細な説明は境内にはありませんが、巨大杉です。


鉾納社 (宝来吉見神社) 夫婦杉


■鉾納社・夫婦杉
千年余の昔、この地の黒牟田と云う所から二振の鉾が出土した。その鉾を納め祀ってある神社である。
その鉾の現物は存在しないが、恐らく特別な銅鉾だろう。その時、鉾を洗った所と云い伝えられる池がある。今も清水が湧き、部落の人の飲料水として使われ、「御手洗様」として持ち回りで清掃が続けられている。又年1回は細やかながら祭りも行われている。
かっては神職の参加は常で盛大であったと古い文章にある。さて、神社について郷土史の大家である佐藤弘先生の著した本には、次のように記されている。
「境内より土器の破片が出たこともあり、又社の前の丘より石棺も出土しており、付近には古墳と思われる所もあり、古代から人住んでいた...」、次にこの神社は不思議な面が伝承されている。東京大学の駒井博士の鑑定によると、「この面は、平安時代の伎楽に用いた崑崙面と云われる物であろう。この種の面は、奈良の東大寺に見られるものの、九州では唯一の貴重なものである」と。又この神社は、明治初年に国龍命を併祭して吉見神社となっているが、古くから鉾納社と称され、土地の人は「ほこみやさん」と親しみをこめ崇拝している。
この神社は、年5回の神事を行う。特に11月末に行われる大祭には、神官の司宰のもと氏子一同並び多くの参拝者が集い奉納相撲や多くの催しが行われ盛大に挙行される。
昔は、この神社には専属の神職が居られた。住居の跡もあり、米室・家塁代の墓と書かれた石碑が近くにある。コンロン面の桐の箱には、「万延元年庚申8月作之人米室平夫代」と記され江戸時代に代々この社の神官をした家系だと云うことが察せられる。
次に地名について述べてみよう・江戸末期の人の話を記したものの中に、次の様に書かれたものがある。「この村は元は「ほこあらい」云っていた。それが「ほあらい」「ほうらい」となった・事実、江戸期の文書には「宝来」とか「鳳来」と書かれ「蓬莱」と書くようになったのは割と歴史が浅いのではなかろうか。今後の研究の材料であろう。
最後に最近美術館や鍋ケ瀧と兼ね合いで参拝に訪れる人を見かける。大木に囲まれた崇高な雰囲気を称える言葉を残して旅立つ人も時々ある。平成21年吉日 文責 吉良 と社殿脇の説明板に書かれています。


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