■祇園橋横のポケットパーク (熊本市細工町五丁目) 2007年に「永田いねとおてもやん像を建てる募金」で作られた「永田イネとおてもやん像」 説明文 「おてもやんと永田いね」 江戸末期の米屋町三丁目に、「糀屋」という味噌製造所があった。この永田家は細川家に多額の御用金を献納して、名字帯刀や家紋三柏の使用を許されていた。 永田いねは、元治元年の年の瀬も迫った12月24日、「糀屋」の主人永田大八の一人娘として出生した・母・辰さんの希望で、四歳の時から踊りを習い始め、やがて琴・三味線・笛・太鼓等幅広く芸事に精通していった。 井芹川で舟遊びしていて唄ったのが、横手の細川邸まで聞こえ、殿様(護久公)の所望によって舞や唄を披露し、脇差を戴いたこともある。 明治15年には、亀甲屋嵐亀乃助と名乗り女芝居一座を組んで、大阪・名古屋方面まで巡業に出た。一座を解散した後は、沢山の弟子をかかえて踊りや三味線・唄の師匠としていたが、その稽古は厳しく、少しでも間違えると扇子や煙管でビシビシ叩いて特訓をしていたので、「気違い師匠」のあだ名があった。 民謡「おてもやん」は、いねが、春日の五反で師匠をしていた頃作られたもので、この節が名古屋さんざい(名古屋甚句)によく似ておるのは、名古屋巡業の際に影響を受けたであろう。 (「五福百年」より) と碑文に書かれています。 |