■緑川製糸場跡 製糸業は、江戸時代末期、生糸は日本から欧米への輸出品の主力品になりました。 緑川製糸場は、西洋式の最新鋭の機械を備え付けた製糸工場としては、熊本県内ではもちろん、西日本でも最初で、かつ最大の製糸場でした。 工場がこの地に設立されたのは、緑川の水質が繭から生糸を取り出す際に使う水として非常に適していたためといいます。 しかし、機械の大量生産に応じるだけ養蚕業が未発達であったことや、緑川製糸場が販売先を輸出に頼っているという問題点がありました。さらに、西南戦争により周辺地域の農地が荒れ、蚕のエサとなる桑畑が大打撃をうけたり、別の製糸工場の設立などがあって、明治15年(1882年)に休業に追い込まれます。 その後、明治30年代に入ると農民たちの養蚕熱の高まりとともに、各地に設立された製糸工場が発展していきます。 緑川製糸工場で働いていた女工たちは、家庭などで養蚕製糸の技を広め、県下各地の製糸業の発展に貢献。また嘉悦氏房の子で女子商業学校創立者・嘉悦孝子も女工として働いていました。そのとき孝子を導いてくれた「音羽先生」は、徳富蘇峯・蘆花兄弟の姉で、久布白落実女子の母にあたる徳富音羽です。
|