■浦戸城 浦戸城は、戦国時代の土佐を代表する武将・長宗我部元親が、土佐一国を領有する拠点として整備した城である。この地は浦戸湾の入口に位置し、交通の要衝として重要な地で南北朝時代からこの地をめぐる攻防が繰り返されてきた。 戦国時代、長岡郡本山を本拠地とする本山氏が高知平野に進出し、朝倉城 (高知市朝倉所在) を拠点としてその勢力を拡張した際、ここに城を築いたのが中世の山城として整備されたはじめである。 1560 (永禄3) 年、本山氏を破った長宗我部氏はこの城を奪った。1585 (天正13) 年に土佐一国り領有を認められて後、元親は一時大高坂山 (現・高知城跡のある地) に城を築いたものの治水に失敗し、1591 (天正19) 年頃再びこの地に移転以後、10年間にわたって浦戸城は長宗我部氏の本城となった。 現存する遺構は、天守台跡、詰ノ段、ここから西へ三ノ段、三ノ下段、堀切及び二ノ段などであるが、中世の山城的構造をもとに、詰ノ段を取り巻く土塁配置や天守を備えた点などの近世城郭としての特徴を併せ持つ、土佐の城郭史上貴重な遺構といえる。と書かれた説明板があります。 ■高知市史跡 浦戸城天守閣 指定 平成6年3月1日 現在地は浦戸城詰ノ段北東隅に位置する。中世の山城としては珍しい天守跡である。天守跡は詰ノ段より7m高く、いびつな台形である。上部は東西11m。南北15mで城八幡 (手前) 大山祇 (奥) の二つの小さな祠がある。天守跡の斜面には石垣の名残と思われる石が露出している。 なお、北斜面は1958 (昭和33) 年の展望台造成工事でその一部が削り取られている。松野尾章行著の「皆山集」に掲げる「浦戸城古城略図」には「五間四方」の天守跡が描かれているが、その広さや造築された時代から長曾我部元親の築いた天守は三層であったと思われる。なお、元親が築城した浦戸城以前の城郭である岡豊城には、まだ天守は出現していない。と書かれています。
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