昭和56年、重要伝統的建造物群保存地区に選定されています


知覧武家屋敷群


■知覧武家屋敷群
現在に残る知覧麓 (ちらんふもと) の武家屋敷群は、江戸時代中期、佐多氏18代で知覧領主島津久峰 (1732〜1772) の時代に形づくられたとされています。江戸時代、薩摩藩は領地を外城 (とじょう) と呼ばれる113の地区に分け、御仮屋を中心に武家集落を造り、鹿児島に武家団を結集させることなく分散して統治に当たりました。知覧もその外城の一つです。
ところで、佐多氏初代忠光が地頭として知覧を治めるようになったのは、南北朝時代の文和2年 (1353) から始まり、当初はここから約1.5キロ南西にある知覧城 (国指定史跡) を拠点としていました。しかし天正19年 (1591) 11代久慶の時代に、海賊事件により川辺の宮村に転封となります。佐多氏が復帰する慶長15年 (1610) まで種子島氏が知覧を治めました。その間に知覧城は火災にあい消失したと伝えられています。
復帰した佐多氏12代忠充は、本拠 (御仮屋) をここから約1キロ西にある中郡地区に御仮屋を移しました。つまり佐多氏が最後に形成した武家集落が現在残るこの武家屋敷群となります。
また佐多と島津の二つの姓の関係は、佐多氏16代久達 (1651〜1719) から始まります。もともと佐多氏は島津氏の分家筋に当たり代々薩摩藩の重席にありました。それまでの功績が認められ久達の時代に、知覧領の私領化と島津姓を許されます。ですから佐多氏16代以降は地等職ではなく領主となり佐多姓ではなく島津姓を名乗りました。
この武家屋敷地区は「門を構え、その裏に主屋を配した武家町の姿をよく今日に伝えている」として昭和56年、重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
と説明板に書かれています。


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