像は八歳を想定し高さ125cm、台座は90cm、前で結んだ両手には故郷指宿への愛が握られていることを表現しています。


天璋院「篤姫」生誕家系の今和泉家別邸跡に建立された篤姫幼少期の像


■篤姫ゆかりの地駐車場の篤姫の説明文
於一(おかつ・篤姫の幼名)が御台所になるまで
於一は天保6年(1835)12月19日、忠剛の長女として鹿児島城下で生まれました。一門家の長女にすぎなかった於一が、将軍家に嫁ぐことなったいきさつは次のとおりでする。嘉永3年(1850)の秋、大奥老女丘尼(びくに)から斉彬に対して「年頃の娘はいないか」との問い合わせがありました。第13代将軍徳川家定の二人目の正室が亡くなった直後のことです。
第11代将軍家斉の正室は、島津重豪(しげひで)の娘茂姫(しげひめ)で、子だくさんで長寿でした。しかし、斉彬には年頃の娘がいなかったため茂姫と血縁のある女子が候補に挙げられ、最終的に於一が選ばれたのです。於一は寛永6年(1853)、斉彬の養女となり名を篤子(篤姫)と改め、婚礼の準備が進められました。その輿入れした際の資金には、薩摩藩の財政再建にも貢献した海運業第8代濱崎太平次が大きく助成したと伝わっています。そして、茂姫の例にならい、近衛家の養女となり、この時、篤姫は号を「篤君」、名を「敬子」と改めました。ペリーの来航や安政の大地震等の影響で婚礼が延び、3年後の安政3年(1856)、家定の正室になりました。
篤姫は、徳川将軍家の菩提寺である東京上の寛永寺の境内に、将軍家定の墓に寄り添う形で眠っています。と書かれています。


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