■ 何遠亭 この建物は、山口県文書舘にある「高田御殿住居差図」などの史料をもとに、何遠亭のおよその間取りを再現したものである。 文久3年(1863)8月18日、七卿と長州藩を中心とした尊皇攘夷派の勢力は、御所で起こった政変により、京都を追われた。 失脚した三条実美ら七卿らは、長州藩へと身を投じ、まずは三田尻御茶屋(防府市)に滞在するが、間もなく一行のひとり、沢宣嘉が挙兵のために長州を離れた。その後、藩は残る六卿を山口に迎えることとし、三条は湯田の草刈屋敷へ、他の五卿は大内御堀氷上にあった氷上山真光院へ移った。 しかし、三条が起居した草刈屋敷は手狭で、他の五卿や随従員と会合するには不便であるなどの理由により、井上五郎三郎(井上馨の実兄)邸を借り上げることとし、大修繕をなし、新たに十二畳の部屋を増築、この増築した建物を「何遠亭」と名付けた。 その名は、三条の秘書役、加藤有隣が、「何の遠きことかこれ有らん」という論語から選定したものである。 「遠くない日にきっと京都に戻れる。必ずその日が来るはずだ...」 三条らは、未来を信じ、新たな時代を夢見ながら、その場所で藩主をはじめ、長州藩および諸藩の有志家たちとともに、国事を論じた。そして、ある時は、憂国の思いを詩歌に表し、またある時は、酒を酌み交わした。 何遠亭。ここは「明治維新」という歴史の転換点の重要な舞台となった、そんな場所なのである。 と何遠亭の縁側で配布されている説明用パンフレットに書かれています。 |