昭和30年、有志たちの間で銅像再建への機運が高まり、呼びかけに応じ全国各地から再び寄付が寄せられ、昭和33年11月この像は再建された


覚苑寺 乃木希典像


■ 覚苑寺 乃木希典像
「武士 (もののふ) は 玉も黄金も なにかせむ いのちにかえて 名こそをしけれ 希典」
乃木希典 (のぎまれすけ)  嘉永2年 1849年 〜 大正元年 1912年
乃木小宮は長府藩士、乃木十郎希次の子として生まれ、少年時代を長府だ過ごす。幼名を無人 (なきと) という。心優しい乃木少年は文人として漢学や詩文で身を立てることを志したが、厳格な父に厳しく鍛えられ、また、16歳の時、乃木家とは親戚筋に当たり、吉田松陰の叔父でもある萩の玉木文之進に従学。厳しい薫陶を受け、松陰の思想や士道精神を学ぶ。そして、武人としての道を歩んでいくこととなる。
輝かしい勝利にも決して驕ることなく、多くの将兵の死に涙し、慈愛深く、常に弱者、庶民に思いを寄せ、社会奉仕や慈善事業に生涯をささげた。
また、将軍は明治帝より深い恩籠と格別なる信任を賜ったが、全身全霊をもってそれに応えんとし、晩年は学習院院長として、皇孫の教育に意を注いだ。昭和天皇は後年、「私は人格形成に最も影響のあったのは乃木希典学習院院長であった。」と語られたという。第二次世界大戦の処理に際して、昭和天皇がマッカーサー元帥からその人格や思想を絶賛されたのも将軍の行った教育による影響が大きいものと思われる。
将軍は長府の帰郷の際には必ず、毛利家廟所や少年時代の漢学の師、結城香崖先生の墓がある当寺に参られていたというが、将軍の死から二十年、なお将軍を敬愛してやまない、時の住職進藤端堂師が銅像の建立を発願。一人一銭百万托鉢を行願を起こ苦節七年、昭和14年4月、銅像が建立されたが、惜しくも戦局の苛烈と共に供出しれた。
しかし、昭和30年、有志たちの間で銅像再建への機運が高まり、呼びかけに応じ全国各地から再び寄付が寄せられ、昭和33年11月この像は再建された。
乃木将軍は清廉、高潔、信義、至誠の人にして、武士道の具現者なり。清ま正しく、そして誇り高き者の象徴として未来の日本人をいつまでも見守り続けることであろう。
当山第二十八代有曠記す
と像の脇の説明板に書かれています。



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