旧駅舎事務室は、改装され於福 地域交流ステーションとなっています


 
美祢線 於福駅 明治維新150年


■美祢線 於福駅 明治維新150年
於福 (おふくえき) と読みます。
於福の地名については、諸説あります。
1 「防長風土・注進案」によると、山城山にこかねのつるしありしを掘り出し時「山子供・ふおふふく・おふふくと呼しより於福と唱え来たりしと申店傳候へ」とある。
2 「於福風土記」によると、大化の改新の後、律令命令がしかれ、山陽山陰連絡路の宿駅・駅家 (ウマヤ) 意福の里と言われ、早くから連絡路として利用も多く延喜の代、長門の国駅家に、阿津、鹿野、意福、の名が見られると記している。
3 「於福村勢要覧」には、今から五百年前この地の城主、平佐雅楽守は戦国の無情を感じて、他国に出家し修行中、その夫人於福御前は夫の帰国を断念し、城中にあった軍資金を費やして、田畑を開通し、この地を開拓した。
この開拓の大功労者の徳を後生に伝える為に於福村と称しとある。
と駅舎脇の説明板に書かれています。



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