紀貫之が見た風景の中に咲くアヤメの花


紀貫之邸跡 アヤメ


■紀貫之邸跡
奈良時代から平安時代を通じて、土佐に来任した国司 (土佐の守) の数は、百十余人が文献に見えます。その国司の館跡が、現在「紀貫之邸跡」と称されるのは、歴代国司のうち、紀貫之が抜きんでて名の高かった故であります。
延長8年 (930) 1月、土佐の守に任ぜられ貫之は、当時60歳すぎでありましたが、都ではすでに王朝屈指の歌人として、その名を馳せており、30歳代の若き日に、醍醐帝の勅命による「古今和歌集」の選者・序文の筆者としての光栄を担っております。
4年間の国司の任務を無事には果たして、承平4年 (934) 12月には、京の都へ立ちますが、その時の船旅日記を綴ったのが、かな文字による日記文学として、後世に風韻を残した紀貫之の「土佐日記」であります。
この日記を通じて、貫之の、移りゆくものへの心くばり、情にあつい人となりが、よく分かりのすが、なかでも都へ帰る直前に、京から連れてきた愛娘 (6から7歳) を急病で亡くして、共に帰れない嘆き、いわゆる 帰らぬ人 への情愛、哀傷を、日記文のいたるところに滲ませております。
貫之は多情多恨、移りゆく心の持ち主であったことは、「土佐日記」や歌集などにもうかがわれますが、現在高知県安芸郡北川村に、貫之の寵を得たことを系図に記して、紀氏姓を名乗る家系があります。
貫之は土佐へ赴任する時、醍醐帝より「新撰和歌集」の撰進を命ぜられておりましたが、帝の崩御によって、作品は日の目を見ることはありませんでした、その痛恨・帰らぬ人のおもいをこめて、「土佐日記」は創作されました。
こうした紀貫之であった故に、この邸跡に建つ新旧5つの碑は、みな貫之「土佐日記」を敬慕し、讃えるものばかりであります。
平成8年 (1996) 8月吉日 国府史跡保存会 と書かれた説明板があります。


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